「野津道貫」の版間の差分

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'''野津 道貫'''(のづ みちつら / どうがん、[[天保]]12年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1841年]][[12月17日]]) - [[1908年]]([[明治]]41年)[[10月18日]])は、[[幕末]]の[[薩摩藩]]士、明治の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]。[[都督部|東部都督]]、[[教育総監]]、[[第4軍 (日本軍)|第4軍]]司令官を歴任した。[[仮名 (通称)|通称]]は七次。[[諱]]は道貫。最終階級は[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]][[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[金鵄勲章|功一級]][[侯爵]]。兄に陸軍中将・[[野津鎮雄]]がいる。
 
== 経歴生涯 ==
[[鹿児島城]]下[[高麗町]]の下級藩士・野津鎮圭の二男として生まれる。幼くして両親を亡くした。[[薬丸兼義]]に[[薬丸自顕流]]を学ぶ。[[戊辰戦争]]に6番小隊長として参加。その活躍がめざましく、[[鳥羽・伏見の戦い]]から[[会津戦争]]、[[二本松の戦い]]、次いで[[箱館戦争]]に参戦。
 
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[[1904年]](明治37年)6月、第4軍司令官に就任し、[[日露戦争]]に参戦。[[1906年]](明治39年)1月、元帥の称号を戴くまでに至る。
 
[[1907年]](明治40年)9月、侯爵に陞爵。同月より翌年10月まで、貴族院議員を務めた。[[1908年]](明治41年)10月6日、[[大勲位菊花大綬章]]を受ける。同年10月18日、幽門閉塞のためにより[[薨去]]<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)226頁</ref>。
 
== エピソード ==