「張本勲」の版間の差分
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: [[愛甲猛]]は、ロッテの選手が乗ったバスがヤクザの車に道を塞がれたことがあって、張本が一人でバスを降りて怒ってるヤクザのとこへ行くと、「5〜6分ほどでカタをつけて、何事もなかったかのようにバスに戻って来た」と話している<ref>[[週刊アサヒ芸能]] 2012年9月6日号、76頁</ref>。
[[江本孟紀]]が入団1年目({{by|1971年}})のキャンプのフリーバッティングに登板した際、[[大杉勝男]]、[[白仁天]]に対して1球もストライクが入らなかった。江本は白に「バカヤロー、プロかお前」と怒鳴られ、投手コーチの[[土橋正幸]]からも怒られ、「次にストライクが入らなかったら辞めます」と言うつもりでいたところ、次の打者が張本だった。そのため足が震えたまま投球し、案の上ストライクにならなかったが、張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句も言わずに当てて、そのうちに江本はストライクが入るようになったという<ref name="阿川江本">[[週刊文春]]2018年6月28日号『[[阿川佐和子]]のこの人に会いたい』第1216回、プロ[[野球解説者]]、江本孟紀、134-138頁</ref>。[[阿川佐和子]]が「張本さんは江本さんを助けようとして?」と質問すると、江本は「それは本人には聞いてないです。どんなボールだって打てるぞっていうつもりだったのかも知れない。でも優しいところがある人だから。その件以降、僕はすぐ一軍に上がる事ができました」と述べており、プロに入ってからの恩人として土橋、[[野村克也]]と共に張本の名前を挙げている<ref name="阿川江本"/>。
[[野村克也]]が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/07/kiji/K20121207004724130.html 張本氏、東尾氏が現役時代裏話 バットでノムさん叩いた!?] - スポニチ</ref>。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本は[[サンデーモーニング]]で「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。一方、野村は上記のいきさつを否定した上で、張本にささやき戦術をすると、張本が繊細すぎるためにバッターボックスでの立ち位置がなかなか定まらなくなり、結果的に試合時間がかかりすぎてしまうことから、張本へのささやき戦術をやめたとしている<ref>[[野村克也]]『プロ野球重大事件 誰も知らない“あの真相”』 (2012/02 角川書店)</ref>。
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かつて、[[パシフィック・リーグ#「実力のパ」|「人気のセ」「実力のパ」]]と言われ<ref>[http://pentasports.net/member/1006/p04-01.html 実力のパ? 野球入魂 - Digital PENTA]</ref>、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]]で、「[[セ・リーグ]]に負けるな」と本気で闘った[[パ・リーグ]]選手の先頭に立っていたのは、張本であると[[野村克也]]は話している<ref>『[[S☆1]]』、[[TBSテレビ|TBS]]、2014年5月19日放送</ref>。
自身の著書の中で監督業について、「私も現役時代11人の監督を仕えていたからわかるが、確かにヘボ監督はいる。野球ほど監督の采配ひとつで戦況や勝敗が180°変わるものはないだろう」と述べ<ref>プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55、P99</ref>、「現役時代名選手だったのに、指揮官になったとたん、動揺して信じられないような采配をする監督がいる。本名を出すのは憚れるので、ここでは[[中西太|N監督]]としよう。こちらが一打逆転の場面なのに落ち着いてベンチから見ていられない。ベンチ裏に引っ込んで小窓から覗きながらマネージャーにカウントを確認し、ここで逆転できないとどうしようと不安でたまらず直視できない。監督がこんな状態ならベンチにいる選手も戦う気になれない
==== トラブル・事件 ====
[[退場]]処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の[[山下健]]に体当たりした<ref name="日本プロ野球事件史">日本プロ野球事件史―1934-2013、2013年、ベースボール・マガジン社、P86</ref>。この行為で[[足立光宏]]が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。[[ダリル・スペンサー]]が「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事には至らなかった<ref name="日本プロ野球事件史" />。
日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に[[城之内邦雄]](当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である<ref name="新潮4520091" /><ref name="東スポ2008117" >東京スポーツ・2008年1月17日付 3面「加藤初・鉄仮面の告白」第7回</ref>。この広島での事件は、張本が[[セ・リーグ]]の巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="週刊朝日197557" >「ジャイアンツ"張本暴行事件"にみる現代版"藪の中"」『週刊朝日』1975年5月7日号、朝日新聞出版、p22-23</ref>。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に浴びた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="週刊朝日197557" />。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一、二塁から[[山本功児]]がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、[[山本浩二]]の好返球と[[水沼四郎]]の好ブロックで二塁ランナー[[土井正三]]が本塁タッチアウトになった<ref name="東スポ2008117" />。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた<ref name="東スポ2008117" /><ref name="週刊朝日197557" />。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした<ref name="東スポ2008117" />。これは張本と[[原田治明]]、[[黒江透修]]コーチらがブロックし事なきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ<ref name="東スポ2008117" />。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた<ref name="東スポ2008117" />。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った<ref name="新潮4520091" />。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた<ref name="在日はなぜ" /><ref name="東スポ2008117" />。張本は傷害容疑で事情聴取されたが自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった<ref name="新潮4520091" />。母や兄も現場をしっかり見ていた
プライベートでは[[傷害罪]]で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本が[[タクシー]]とぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している<ref>『男気万字固め』p120-121</ref>。この年、張本は[[1965年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]を辞退している。
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==== 大豊泰昭との関係 ====
大豊は1992年秋から打法改造に取り込んだが、それを勧めたのが張本だった。大豊には尊敬する王貞治と同じように体が突っ込む癖があった
当初、大豊は張本のことを信用していなかったが、張本は大豊と共に悩み、行き詰ったら王に電話してアドバイスを求めるなどして信頼関係を作り、打法改造に取り組んだ。大豊は打法改造に成功し、1994年には本塁打王と打点王の二冠王獲得している<ref> {{Cite journal|和書
|date = 2015-02-21
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