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| combatant1={{JPN1889}}
| combatant2={{USA1912}}<br />{{AUS}}<br />{{NZL}}
| commander1={{flagicon|Japan|alt}} [[佐々木登]]少将<br/>{{flagicon|Japan|alt}} [[大田実]]少将
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[[ファイル:Battle_of_New_Georgia_map.jpg|thumb|220px|青い矢印が米軍の進路]]
[[ファイル:MundaPointAirstripView.jpg|thumb|220px|ムンダ飛行場]]
'''ニュージョージア島の戦い'''(ニュージョージアとうのたたかい)とは、[[太平洋戦争]]中のソロモン諸島の[[ニュージョージア諸島]]を巡る戦闘の一つで[[1943年]](昭和18年)[[6月30日]]に[[米軍]]が上陸して始まった。周辺域は権・制空権を喪失した日本軍の輸送は[[駆逐艦]]頼らざを得ず([[鼠輸送]])、阻止をはかる米艦隊との間で数回におよぶ海戦が生起した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=149a|ps=〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦}}。一連の作戦により日本側は大きな被害を出したため、この海域は“駆逐艦の墓場”と呼ばれた<ref>千早、188ページ</ref>。ここでは同じ[[ニュージョージア諸島]]のレンドバ島・コロンバンガラ島・ベララベラ島での戦いも記述する。
 
== 背景 ==
[[1942年]](昭和17年)[[7月2日]]アメリカ軍は[[ソロモン諸島]]における反撃作戦「[[ウォッチタワー作戦]]」を発動、[[8月7日]]には[[ガダルカナル島]]に上陸し[[ガダルカナルの戦い]]が始まった。同年12月、ガダルカナル島での戦いを支援するため、[[ニュージョージア島]]西部の[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に飛行場を建設し海軍航空隊[[第二五二海軍航空隊|252空]]が進出したが、連合軍の激しい空襲により翌年1月には航空隊は撤退した<ref name="sa">戦史叢書96 36 ページ</ref>{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|pp=280-281}}
 
同年[[12月31日]]に日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定したが、その後のソロモン諸島の防衛線をどこに置くかで陸海軍の意見が分かれた。陸軍は[[ラバウル]]までの後退を提案したが、海軍は制海権の確保のためソロモン諸島中部に防衛線を置くことを主張した。結果的に海軍の提案が採用され、1943年2月に海軍の第8聯合[[海軍陸戦隊#特別陸戦隊|特別陸戦隊]]4000名と[[海軍設営隊|設営隊]]3600名、陸軍の南東支隊(佐々木登少将。[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]の歩兵第229聯隊など6000名)がニュージョージア島に派遣されムンダの防衛を強化した。うち陸軍の多くは、ガダルカナル島から撤退してきたばかりの消耗した部隊であった。
同年[[12月31日]]に日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定したが、その後のソロモン諸島の防衛線をどこに置くかで陸海軍の意見が分かれた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=49-50}}。陸軍は[[ラバウル]]までの後退を提案したが、海軍は制海権の確保のためソロモン諸島中部([[ニュージョージア諸島]])に防衛線を置くことを主張した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=49-50}}。結果的に海軍の提案が採用され、1943年(昭和18年)2月に海軍の第8聯合[[海軍陸戦隊#特別陸戦隊|特別陸戦隊]](司令官[[大田実]]少将。第七横須賀特別陸戦隊、第五呉特別陸戦隊)4000名と[[海軍設営隊|設営隊]]3600名、陸軍の南東支隊([[佐々木登]]陸軍少将。[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]の歩兵第229聯隊など6000名)がニュージョージア島に派遣され、ムンダの防衛を強化した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=49-50}}。うち陸軍の多くは、ガダルカナル島から撤退してきたばかりの消耗した部隊であった。
しかしすぐに米軍の航空攻撃を受け輸送船2隻を喪失、早くも物資不足に陥ってしまった{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=49-50}}。
連合軍の制空権下では鈍足の輸送船を運用することは出来ず、日本軍は駆逐艦で輸送作戦を実施した([[鼠輸送]]){{Sfn|落日の日本艦隊|2014|pp=280-281}}。第八艦隊・第三水雷戦隊に所属する旧式駆逐艦([[睦月型駆逐艦|睦月型]]、[[神風型駆逐艦 (2代)|神風型]])が輸送任務に奔走することになったが、激戦と激務により損傷艦が続出した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=130a|ps=輸送任務に追われる「睦月」型}}。連合艦隊は第八艦隊に応援の駆逐艦を派遣したが、ニューギニア方面輸送作戦([[ビスマルク海海戦]])を含めて大損害を出した。
 
しかしすぐに米軍の航空攻撃を受け輸送船2隻を喪失、早くも物資不足に陥ってしまった。補給のためラバウルより[[鼠輸送]]として[[駆逐艦]]2隻が派遣されたが、米艦隊に迎撃され[[ビラ・スタンモーア夜戦]]で輸送部隊は全滅した。
{{Main|ビラ・スタンモーア夜戦}}
3月には、ソロモン諸島での海上優勢を取り戻すべく[[い号作戦]]が発動されたが、米海上戦力に大きな損害を与えられず失敗した。ラバウルの航空部隊は消耗してしまい、補充もままならなかった。しかし米軍は[[ニューヘブリディーズ島]]から航空機を補充し、ソロモン各地で約500機の戦力を維持していた。ソロモン諸島における日本軍の劣勢は決定的なものとなった。
さらに5月8日には[[鼠輸送]]を行っていた駆逐艦「[[親潮 (駆逐艦)|親潮]]」、「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」、「[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]」の三隻が触雷により全滅した。
 
3月5日、[[コロンバンガラ島]]への輸送を終えて帰路についていた駆逐艦2隻(白露型[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=90a|ps=村雨(むらさめ)}}、朝潮型[[峯雲 (駆逐艦)|峯雲]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91a|ps=峯雲(みねくも)}})は{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=78-79|ps=▽ビラスタンモーア夜戦}}、[[クラ湾]]を航行中に米艦隊(大型軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻)の奇襲攻撃を受け、一方的に撃沈された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148a|ps=〔ビラ・スタンモーア夜戦〕}}{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=371-372|ps=ヴィラ・スタンモア海戦}}。
このような状況の中、米軍はムンダ飛行場を攻略しこれを自軍の飛行場として使用するためにニュージョージア島侵攻作戦を発動した。
5月8日には、駆逐艦[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]・[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]と交代でコロンバンガラ島輸送作戦を実施していた第15駆逐隊([[親潮 (駆逐艦)|親潮]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92a|ps=親潮(おやしお)}}、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92b|ps=黒潮(くろしお)}}、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=92c|ps=陽炎(かげろう)}})は、米軍が敷設した[[機雷]]に触雷して全滅した{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|pp=282-283}}。
 
3月下旬から4月中旬かけて、ソロモン諸島での海上優勢を取り戻すべく[[い号作戦]]が発動されたが、米海上戦力に大きな損害を与えられず失敗した(4月18日、[[海軍甲事件]]勃発、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]大将戦死){{Sfn|落日の日本艦隊|2014|pp=177-178|ps=山本連合艦隊司令長官戦死}}。ラバウルの航空部隊は消耗してしまい、補充もままならなかった。しかし米軍は[[ニューヘブリディーズ島]]から航空機を補充し、ソロモン各地で約500機の戦力を維持していた。ソロモン諸島における日本軍の劣勢は決定的なものとなった。
 
{{Main|カートホイール作戦}}
ニュージョージア島侵攻はガダルカナル島の防衛に成功したアメリカ南太平洋軍(司令官はハルゼー海軍大将)がソロモン諸島沿いにラバウルに向かう反攻の最初の大規模作戦であった。
 
このような状況の中、米軍はムンダ飛行場を攻略しこれを自軍の飛行場として使用するためにニュージョージア島侵攻作戦を発動した。
ニュージョージア島侵攻はガダルカナル島の防衛に成功したアメリカ南太平洋軍(司令官はハルゼー海軍大将)がソロモン諸島沿いにラバウルに向かう反攻の最初の大規模作戦であった。
ニュージョージア島侵攻は5月中句に予定されていたが、ヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたため、ニュージョージア島侵攻は6月初に、ついで6月30日に延期になった<ref>ポッター, 355ページ</ref>。
 
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{{Main|ルンガ沖航空戦}}
 
米軍の当初の計画では7月4日までにニュージョージアの日本軍をほぼ駆逐できる見込みであった。5月末時点の中部ソロモン諸島日本軍防備隊は、海軍部隊約6,100名・陸軍部隊約5,500名、計約11,700名であった{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=283}}。6月に2,400名が増強され、総計約14,100名となった{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=283}}
 
== 戦闘 ==
===レンドバ上陸===
{{main|{{仮リンク|レンドバ島の戦い|en|Landings on Rendova|label=レンドバ島の戦い}}}}
米軍はニュージョージア島での作戦を掩護をするための砲台の設置を目的として、まずムンダ沖合い10キロに浮かぶレンドバ島に侵攻した{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=283}}。[[1943年]](昭和18年)[[6月30日]]早朝、米軍の[[輸送船]]6隻と駆逐艦8隻が襲来し、[[レンドバ島]]に5000名の部隊を上陸させた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=100-101}}。同日中に事態を把握した日本軍は、ラバウルより[[一式陸攻]]25機を派遣して米揚陸艦隊に攻撃を行なったが、上陸部隊指揮官[[リッチモンド・K・ターナー|ターナー少将]]の旗艦[[マッコーリー (攻撃兵員輸送艦)|マッコーリー]]を大破(のち沈没)せしめたものの、[[対空砲]]火によって18機を撃墜され阻止に失敗した。レンドバ島守備隊は僅か140名で、敵襲来を打電したのち消息を絶った。レンドバ島に上陸した米軍はその物量と機械力を駆使し、27時間で重砲の砲台を建設してムンダ方面への砲撃を開始した。
 
を大破(のち沈没)せしめたものの、[[対空砲]]火によって18機を撃墜され阻止に失敗した。レンドバ島守備隊は僅か140名で、敵襲来を打電したのち消息を絶った。レンドバ島に上陸した米軍はその物量と機械力を駆使し、27時間で重砲の砲台を建設してムンダ方面への砲撃を開始した。
日本海軍において中部ソロモン諸島を担当していたのは、[[南東方面艦隊]](司令長官[[草鹿任一]]海軍中将、第十一航空艦隊司令長官兼任)と麾下の[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](司令長官[[鮫島具重]]中将、軍隊区分においては外南洋部隊)であった。外南洋部隊の麾下には外南洋部隊増援部隊(時期によっては夜襲部隊または襲撃部隊と呼称)があり、この部隊の指揮官は第三水雷戦隊司令官[[秋山輝男]]少将である。
翌月3日にムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ、陸軍は海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍からは「ラバウルの航空部隊は消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答された。さらに陸軍の佐々木支隊長がレンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが、上陸に必要な[[大発]]は米軍の砲撃で破壊されており実行は不可能だった。こうした状況の中、レンドバ島逆上陸用の増強部隊を[[コロンバンガラ島]]に輸送した日本艦隊が、クラ沖で米艦隊に迎撃された。この[[クラ湾夜戦]]で日本海軍は米[[軽巡洋艦]]1隻を撃沈し輸送は成功したが、秋山三水戦司令官と三水戦司令部は総員戦死、貴重な駆逐艦を2隻失った。
 
7月3日、ムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ、陸軍は海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍側は「ラバウルの航空部隊は消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=110-112}}。さらに陸軍の佐々木支隊長がレンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが、上陸に必要な[[大発]]は米軍の砲撃で破壊されており、実行は不可能だった{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=113-114}}。こうした状況の中、レンドバ島逆上陸用の増強部隊を[[コロンバンガラ島]]に輸送するため、外南洋部隊増援部隊はコロンバンガラ島へ出撃する{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=115-116}}。第一回出撃では米駆逐艦1隻を撃沈するが、輸送作戦は失敗した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=115-116}}。
 
7月5日、三水戦の駆逐艦10隻(警戒隊3隻、輸送隊7隻)がコロンバンガラ島へむかうが(第二回出撃){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148b|ps=〔クラ湾夜戦〕}}、同日夜にクラ湾で米艦隊(軽巡3、駆逐艦4)に迎撃された{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=79-80|ps=▽クラ湾夜戦}}{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=130b|ps=クラ湾夜戦と被害}}。この[[クラ湾夜戦]]で日本海軍は軽巡洋艦[[ヘレナ (軽巡洋艦)|ヘレナ]]を撃沈し輸送は成功したが{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=284a|ps=〔クラ湾夜戦〕}}、第三水雷戦隊旗艦[[新月 (駆逐艦)|新月]]が沈没して秋山三水戦司令官と三水戦司令部は総員戦死{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=115-116}}、他に駆逐艦[[長月 (睦月型駆逐艦)|長月]]を失い、損傷艦多数を出した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=87|ps=長月(ながつき)}}{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=130c-131|ps=●「長月」の座礁と最期}}。後任の三水戦司令官は[[伊集院松治]]大佐{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=171-174|ps=○昭和18年の増援部隊指揮官は、[[ビスマルク海海戦]]で[[木村昌福]]少将重傷、クラ湾夜戦で秋山輝男少将戦死、コロンバンガラ沖海戦で伊崎俊二少将戦死と、次々に交代した。}}。
 
{{Main|クラ湾夜戦}}
===米軍ニュージョージア上陸===
[[ファイル:Drive toward Munda Point.jpg|thumb|220px|7月前半の戦況]]
[[7月4日]]深夜に、米軍は猛烈な砲爆撃の掩護の下ニュージョージア島西部の南岸ザナナに3000名を上陸させ、翌日に北岸のライスにも部隊を上陸させた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=120-122}}。これを受けて佐々木支隊長は、逆上陸のため待機していた[[歩兵第13連隊]]をニュージョージア島北部に派遣する{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=120-122}}。上陸した同連隊は[[ジャングル]]を横切り、15日にザナナの米軍に夜間斬り込みを行い戦果を挙げたが、夜明けと同時に猛烈な集中砲撃にさらされて射程外まで後退した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=120-122}}。歩兵第229聯隊も米軍と交戦したが、[[機関銃]]を全て失ったため白兵戦を行なった{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=120-122}}。後退した第13連隊は22日に攻撃を再開し、28日には米第148歩兵連隊と交戦、百数十名を殺傷し[[貨物自動車|トラック]]15台と[[速射砲]]5門を破壊したが、米軍の砲撃で連隊長の[[友成敏]]大佐が負傷した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=120-122}}
 
一方のアメリカ軍もジャングルと日本軍の抵抗に阻まれ、さっぱり前進できなかった。
 
全滅した三水戦司令部を再建するまで、第二水雷戦隊司令官[[伊崎俊二]]少将が外南洋部隊増援部隊を率いることになった{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=374-378|ps=コロンバンガラ島海戦}}。7月12日、伊崎少将(旗艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]])は兵員輸送のため、軽巡1隻と駆逐艦9隻(警戒隊6、輸送隊4)を率いてコロンバンガラ島へむかう{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=148c-149|ps=〔コロンバンガラ島沖夜戦〕}}。これを阻止しようとする米海軍・ニュージーランド海軍の巡洋艦部隊(軽巡3、駆逐艦10)との間で夜間水上戦闘となった{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=81-83|ps=▽コロンバンガラ島沖海戦}}。この海戦で日本軍は勝利し、輸送任務も達成した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=377}}。だが日本側も旗艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]を喪失し、第二水雷戦隊司令部は全滅した(伊崎少将戦死){{Sfn|セ号作戦|2003|pp=118-119}}{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=284b|ps=〔コロンバンガラ島沖海戦〕}}。
日本軍はコロンバンガラ島から兵力を増強させようとし、これを阻止しようとする米海軍・ニュージーランド海軍との間に7月12日、[[コロンバンガラ島沖海戦]]が発生した。
{{Main|コロンバンガラ島沖海戦}}
 
この海戦で日本軍は勝利し、輸送は成功したが、伊崎二水戦司令官と二水戦司令部は旗艦ごと総員戦死した。
度重なる夜戦で米軍に大損害を与えたと判断した外南洋部隊は、第七戦隊司令官[[西村祥治]]司令官の重巡洋艦3隻(熊野、鈴谷、鳥海)と第三水雷戦隊をコロンバンガラ島に派遣し、米艦隊の撃滅を試みた。だが7月20日に夜間空襲を受けて重巡[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]が大破、駆逐艦2隻([[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=90b|ps=夕暮(ゆうぐれ)}}、[[清波 (駆逐艦)|清波]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=94|ps=清波(きよなみ)}})が沈没して失敗した。同時期には水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]が駆逐艦3隻(萩風、嵐、磯風)に護衛され、戦車・砲兵・弾薬と兵員を満載してブインに派遣されたが、到着直前の7月22日に日進は大規模空襲を受けて撃沈された{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=122-123}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|pp=137-138}}。
 
[[ファイル:Clean up new georgia.jpg|thumb|220px|8月の戦況]]
[[7月25日]]、米第14軍は猛烈な砲爆撃の掩護の下、[[M3軽戦車]]六両を先頭にムンダへの攻勢を開始した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=124-126}}。対戦車装備の乏しい日本軍は[[破甲爆雷]]を用いて肉弾戦を行なったが、多大な損害を出して[[8月4日]]にムンダ飛行場を放棄して戦線を縮小した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=124-126}}。8月5日までに各大砲の砲弾は底を突いた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=124-126}}
{{main|{{仮リンク|ムンダの戦い (1943年)|en|Battle of Munda Point|label=ムンダの戦い}}}}
 
===米軍のベララベラ上陸と日本軍のニュージョージア放棄===
日本軍は、駆逐艦によるコロンバンガラ島への[[鼠輸送]]を続けた。米軍は水雷戦隊や魚雷艇を派遣して邀撃し、8月1日には、輸送部隊護衛中の駆逐艦[[天霧 (駆逐艦)|天霧]](駆逐艦長[[花見弘平]]少佐)が、[[ジョン・F・ケネディ]]中尉(後の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]])艇長の[[魚雷艇]]「{{仮リンク|PT-109 (魚雷艇)|label=PT-109|en|Motor Torpedo Boat PT-109}}」を体当たりで撃沈している{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=89|ps=天霧(あまぎり)}}。
日本軍[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]は、増援部隊と物資50トンを駆逐艦4隻に積み込んでラバウルから発進させたが、8月6日夜、[[ベララベラ島]]沖で米軍に迎撃された。この[[ベラ湾夜戦]]で日本海軍は3隻の駆逐艦を失って、輸送作戦も失敗した。
 
ニュージョージア諸島の戦局も、転機を迎えつつあった。米軍はニュージョージア島に重砲を設置、コロンバンガラ島への砲兵射撃を開始する{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=149b-150|ps=〔ベラ湾夜戦〕}}。前述のようにニュージョージア島の日本軍守備隊は追い込まれており、次に米軍の目標となるであろうコロンバンガラへの増援輸送は急務となった。その一貫として、同島のビラ飛行場への増援輸送が実施された{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=83-84|ps=▽ベラ湾夜戦}}。
8月6日の輸送作戦は、軽巡[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]と駆逐艦4隻でおこなわれ{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=285}}、このうち駆逐艦4隻は増援部隊約950名と物資55トンをラバウルからコロンバンガラ島へ輸送する(川内はブインまで){{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=83-84|ps=▽ベラ湾夜戦}}。米軍は日本側の動向を察知しており、駆逐艦6隻を[[ベララベラ島]]沖に配置した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=378-379|ps=ヴェラ湾夜戦}}。アメリカ側の奇襲攻撃により日本側[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=萩風(はぎかぜ)}}、嵐{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93b|ps=嵐(あらし)}}、江風{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91b|ps=江風(かわかぜ)}}は一方的に撃沈され、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]のみ生還した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=126-127}}。
この輸送失敗によってニュージョージア島での敗北は決定的となり、佐々木支隊長は[[コロンバンガラ島]]への撤退を第八方面軍司令部に打電した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=126-127}}。だが、司令部より「ムンダ飛行場を砲撃して敵に使わせないのが任務だ」と反対された{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=126-127}}。
 
{{Main|ベラ湾夜戦}}
この輸送失敗によってニュージョージア島での敗北は決定的となり、佐々木支隊長は[[コロンバンガラ島]]への撤退を第八方面軍司令部に打電したが、司令部より「ムンダ飛行場を砲撃して敵に使わせないのが任務だ」と反対された。制空権も砲撃力もない現状においては、まったく無理な注文であった。
 
[[8月15日]]、コロンバンガラ島の防備が厚いと見た米軍は、同島の迂回を決定した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=132-133}}。[[8月15日]]、米軍第25歩兵師団はベララベラ島に上陸を開始し、コロンバンガラ島とニュージョージア島は後方を遮断される形となった{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=379-380|ps=第一次ヴェラ・ラベラ海戦}}。ベララベラ島の日本軍守備隊(鶴屋好夫陸軍大尉、通称「鶴屋部隊)は600人にすぎず、たちまち苦戦に陥った{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=24}}。上陸したアメリカ軍は陣地を構築し、[[シービー|シービーズ]]が飛行場の建設を始めた<ref>ポッター, 368ページ</ref>。やがて、アメリカ軍に対する反撃がないと確信すると、上陸部隊は海岸沿いに二手に分かれて戦線を北上させ、また[[ニュージーランド軍]]部隊を呼び寄せて戦力の増強を行った<ref>ニミッツ、ポッター、169ページ</ref>。
{{main|{{仮リンク|ベララベラ島の戦い|en|Land Battle of Vella Lavella|label=ベララベラ島の戦い}}}}
 
[[8月17日]]、日本軍はベララベラ島ホラニウを強化するため輸送部隊を派遣し、ベラ沖で哨戒中の米艦隊と交戦した。この[[第一次ベララベラ海戦]]で[[日本海軍]]は[[駆潜艇]]4隻を失ったものの輸送は成功した。
[[8月17日]]、日本軍はベララベラ島ホラニウを強化するため陸軍二個中隊と海軍陸戦隊をおくることに決し、舟艇隊([[大発動艇]]、[[装載艇|内火艇]]、漁船改造駆潜艇)による輸送部隊を編成した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150a|ps=〔第一次ベラ・ラベラ海戦〕}}。これを三水戦司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦「漣」){{Sfn|磯風、特年兵|2011|pp=83-84}}指揮下の駆逐艦4隻(漣、磯風、浜風、時雨)が護衛した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=379-380|ps=第一次ヴェラ・ラベラ海戦}}。米艦隊は[[フレッチャー級駆逐艦]]4隻で応戦したが、駆逐艦同士の戦闘は引き分けに終わる{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150a|ps=〔第一次ベラ・ラベラ海戦〕}}。日本側の輸送は成功したが{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=138-139}}、特設駆潜艇2・大発動艇1・内火艇1隻を失った{{Sfn|駆逐艦入門|2006|pp=379-380|ps=第一次ヴェラ・ラベラ海戦}}。日本軍の補給は、大発動艇による[[蟻輸送]]や、機帆船による輸送に頼らざるを得なくなった{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=150-152}}。
 
{{Main|第一次ベララベラ海戦}}
 
ベララベラ島への米軍上陸は、中部ソロモン放棄の決定打となった{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|pp=134a-136|ps=セ号作戦}}。日本軍司令部はコロンバンガラ島とニュージョージア島の放棄を決定した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=134b}}。まず8月30日までにニュージョージア島の部隊が、大発と小型船を使ってコロンバンガラ島に転進した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=144}}。佐々木支隊長は、コロンバンガラ島の安全を確保するため[[アルンデル島]]に第13連隊を派遣した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=153}}。[[9月15日]]、第13連隊長友成敏大佐の乗った舟艇は上陸途上で米軍に発見されてしまった{{Sfn|セ号作戦|2003|p=153}}。猛烈な砲撃を受けて艇は沈没し、友成大佐は壮烈な戦死を遂げた{{Sfn|セ号作戦|2003|p=153}}。アルンデル島は第13連隊によって確保され、米軍に損害を与えてその進撃を阻止した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=153}}
佐々木支隊長は、コロンバンガラ島の安全を確保するため[[アルンデル島]]に第13連隊を派遣した。[[9月15日]]、第13連隊長友成敏大佐の乗った舟艇は上陸途上で米軍に発見されてしまった。猛烈な砲撃を受けて艇は沈没し、友成大佐は壮烈な戦死を遂げた。アルンデル島は第13連隊によって確保され、米軍に損害を与えてその進撃を阻止した。
 
== セ号作戦 ==
[[ファイル:Daihatsu landing craft.JPG|thumb|300px|撤退作戦に使用された[[大発動艇]]]]
当時、[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]は[[ブーゲンビル島]][[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]の第一根拠地隊司令部を間借りしていた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=154-155}}。同艦隊[[参謀]]の[[木阪義胤]]中佐は、コロンバンガラ島からの撤退作戦を立案した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=154-155}}。この作戦は「セ」号作戦と命名された{{Sfn|落日の日本艦隊|2014|p=285}}{{Sfn|セ号作戦|2003|p=162}}。この作戦の目的は、コロンバンガラ島に集結した日本軍12,000名を、[[チョイセル島]]を経由して[[ブーゲンビル島]]に撤退させることであったる{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=135}}。チョイセル島とコロンバンガラ島は最短で48キロしか離れておらず[[大発動艇|大発]]などの舟艇を多用することとなったが{{Sfn|セ号作戦|2003|p=170}}、収容可能な人数が少ないため2往復する事となった。ラバウル在泊また、外南洋部隊襲撃部隊(第三水雷戦隊)の殆どの駆逐艦を投入する作戦となった{{Sfn|セ号作戦|2003|p=171}}。第八艦隊側は「狭い海峡なので[[高雄型重巡洋艦|鳥海級巡洋艦]]は投入しない」と説明した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=170}}
=== 参加兵力 ===
○外南洋部隊(指揮官[[鮫島具重]]海軍中将・第八艦隊司令長官)<br/>
機動舟艇部隊<ref>輸送部隊</ref> (芳村正義少将)
*外南洋部隊機動舟艇部隊<ref>輸送部隊</ref> (芳村正義陸軍少将・陸軍第二船舶団長){{Sfn|セ号作戦|2003|p=175|ps=▽以下、外南洋部隊「セ」号作戦部隊表より。}}
*陸軍船舶工兵第2、第3連隊
**陸軍船舶工兵第2揚陸、第3連
**第2揚陸隊
*海軍舟艇部隊 ([[種子島洋二]]少佐)
**海軍舟艇部隊([[種子島洋二]]海軍少佐、通称「種子島部隊」){{Sfn|セ号作戦|2003|p=162}}
**大発40隻、魚雷艇1隻
***大発40隻、艦載水雷艇9隻、魚雷艇1隻
*呉鎮守府第7特別陸戦隊
**呉鎮守府第7特別陸戦隊
ニュージョージア方面守備隊<ref>脱出部隊</ref>
*ニュージョージア方面守備隊<ref>脱出部隊</ref>
*南東支隊 (佐々木登少将)
**南東支隊 (佐々木登陸軍少将・南東支隊長)
**歩兵第229連隊
***歩兵第13229連隊
**独立山砲*歩兵1013連隊
***独立山砲第10連隊
**第15野戦防空司令部
**独立*第15野戦高射砲第58大隊防空司令部
***独立野戦高射砲第4158大隊
***独立野戦高射砲第241大隊
***独立速射砲第2大隊
*第8聯合特別陸戦隊 ([[大田実]]少将)
**横須賀鎮守府78聯合特別陸戦隊 (司令官[[大田実]]海軍少将)
***横須賀鎮守府第67特別陸戦隊
***呉鎮守府21防空6特別陸戦
***第17設営21防空
***第1917設営隊
***第19設営隊
第3水雷戦隊<ref>掩護部隊</ref> ([[伊集院松治]]大佐、旗艦:「秋雲」)
*外南洋部隊襲撃部隊<ref>掩護部隊</ref>(指揮官[[伊集院松治]]大佐・第三水雷戦隊司令官)
*巡洋艦1隻(川内)、駆逐艦12隻
**巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]](作戦中、三水戦司令官は駆逐艦「秋雲」に座乗){{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=25}}
**駆逐艦12隻<br/>[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]・[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]からの臨時編入艦([[陽炎型駆逐艦|陽炎型]]〈[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]〉、[[夕雲型駆逐艦|夕雲型]]〈[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]〉、[[白露型駆逐艦|白露型]]〈[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]〉)<br/>第八艦隊・第三水雷戦隊の所属艦([[吹雪型駆逐艦|吹雪型]]〈[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]〉、[[睦月型駆逐艦|睦月型]]・[[神風型駆逐艦 (2代)|神風型]]〈[[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]]、[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]、[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[望月 (駆逐艦)|望月]]〉)
 
=== 第一次撤収作戦 ===
9月18日暮れに機動舟艇部隊は夕刻、襲撃部隊(夜襲部隊《旗艦「秋雲」、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨》、輸送隊《皐月、水無月、文月》、警戒隊《天霧》、陽動隊《松風》)<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]297-298頁</ref>の支援のもと機動舟艇部隊はブーゲンビル島[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]を進発し、チョイセル島の基地に入った{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=180-181}}。沿岸に大発を隠匿したが、一連の行動は米軍に察知されており、9月20日に米軍機の攻撃によって大発10隻を喪失した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=180-181}}
 
芳村少将(機動舟艇部隊指揮官)は9月26日に作戦実行を下令し、翌日、機動舟艇部隊はチョイセル島を出発してコロンバンガラ島に向かった{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=185-188}}。夜間にコロンバンガラ島に近づいたところを米軍の駆逐艦5隻(チャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストン、スペンス、フーテ)とそれに援護された魚雷艇群に発見され大発4隻(陸軍3、海軍1)を失ったが、他の大発はコロンバンガラ島への突入に成功した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=190}}。同島では受け入れと撤退準備が整っており接岸した大発を迅速に偽装して夜を待った{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=191-196}}翌日

9月28日午前2時、第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦「秋雲」)指揮下外南洋部隊・襲撃部隊(夜襲部隊、輸送隊、警戒隊、陽動隊)はラバウルを出撃、コロンバンガラ島へ向かった<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]、297-298頁</ref>。コロンバンガラ島では同日夜に兵士約5,000名を載せ、海軍舟艇部隊は洋上の駆逐艦4隻(輸送隊〔皐月、水無月、文月警戒隊〔天霧)と合流し兵士を移乗させた{{Sfn|セ号作戦|2003|p=197}}。陸軍の船舶工兵大隊の舟艇はチョイセル島へ直接向かい無事到着した{{Sfn|セ号作戦|2003|p=198}}。移動中米軍の[[魚雷艇]]6隻が来襲し大発2隻を失ったが、米魚雷艇は駆逐艦と大発に挟み撃ちにされ撃退された{{Sfn|セ号作戦|2003|p=198}}。翌29日から30日にかけて1,100名の兵士を乗せコロンバンガラ島を出発した海軍舟艇部隊は、米駆逐艦4隻(ラルフ・タルボット、パターソン、フーテラルフ、マッカラ)とそれに援護された魚雷艇群に発見され大発1隻を失ったが、他はチョイセル島にたどり着いた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=199-201}}。29日12時30分、襲撃部隊はラバウルに帰投した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=135}}
 
10月1日午前3時、撤収部隊(磯風、時雨、五月雨、望月)はラバウルを出撃した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=237-239}}{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=135}}。偵察機からは巡洋艦2隻と駆逐艦複数隻を含む米艦隊の情報が入った{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=237-239}}。午後8時頃、駆逐艦「[[望月 (駆逐艦)|望月]]」は陸軍部隊収容のため分離してコロンバンガラ沿岸にむかい、3隻(磯風、時雨、五月雨)はコロンバンガラ北方を哨戒する{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=237-239}}。米艦隊は日本側の射程にはいらず、睨み合いが続いた{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=237-239}}。夜間爆撃を受けたが被害はなく、撤収部隊4隻はラバウルに帰投した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=237-239}}。
 
=== 第二次撤収作戦 ===
10月2日午前3時、駆逐艦「[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]」を加えた襲撃部隊(輸送部隊は皐月、文月、水無月){{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=136}}はラバウルを出撃したが、夕凪と松風は故障のため引返し、第27駆逐隊(時雨、五月雨)は警戒隊にまわった<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]299頁(戦史叢書98巻正誤表、松風・夕凪は故障のため途中帰還。時雨と五月雨が警戒隊に編入)</ref>。前回出撃した五月雨は燃料に不安があり、ブーゲンビル水道通過後に反転してラバウルに帰投した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=239}}。
9月3日に第二次撤収作戦が下令され、10月1日夜に機動舟艇部隊は駆逐艦「夕凪」を加えた襲撃部隊に支援され<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]299頁</ref>チョイセル島を発進した。米軍は第一次撤収作戦を受けて哨戒を強化しており、移動中の機動舟艇部隊は米駆逐艦6隻(ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ)に発見された。掩護に当たっていた[[潜水艦]]「[[伊20]]」は、米駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。機動舟艇部隊の各艇は散り散りとなってコロンバンガラ島に突入した。機動舟艇部隊は全ての部隊を収容し、翌2日夜にコロンバンガラ島を離れた。洋上で駆逐艦磯風、時雨、五月雨と合流し移乗を開始したが、米駆逐艦4隻が接近したため中止した。両艦隊は砲撃戦を行なったが、五月雨が小破したのみで日本海軍の駆逐艦は魚雷を発射してラバウルに後退した。のこされた機動舟艇部隊はそのままチョイセル島に脱出した。最終的に投入した大発の半数を失ったが、作戦は成功し1万2千名を脱出させることに成功した。
同日夜、機動舟艇部隊はチョイセル島を発進した。
 
米軍は第一次撤収作戦を受けて哨戒を強化しており、移動中の機動舟艇部隊は米駆逐艦6隻(ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ)に発見された{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=207-209}}。掩護に当たっていた[[潜水艦]]「[[伊20]]」は、米駆逐艦の攻撃を受けて沈没した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=207-209}}。機動舟艇部隊の各艇は散り散りとなってコロンバンガラ島に突入した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=207-209}}。機動舟艇部隊は全ての部隊を収容し、同日夜にコロンバンガラ島を離れた{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=209-213}}。
洋上では、日本軍襲撃部隊と米艦隊(巡洋艦3、駆逐艦3)との間で砲戦・魚雷戦が繰り広げられた{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=136}}。駆逐艦「[[水無月 (睦月型駆逐艦)|水無月]]」が被弾して小破した{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=136}}。日本側駆逐艦は魚雷を発射してラバウルに後退した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=209-213}}。のこされた機動舟艇部隊はそのままチョイセル島に脱出した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=209-213}}。米軍の駆逐艦や魚雷艇の掃討により、最終的に投入した大発の半数を失ったが、作戦は成功し、日本兵約1万2千名(舟艇機動で8000名、駆逐艦で4000名)を脱出させることに成功した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=209-213}}{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=136}}。
 
=== ベララベラからの撤収作戦 ===
コロンバンガラ島からの撤退に伴い[[ベララベラ島]]を維持する必要がなくなったため、第八艦隊は南東方面艦隊の反対を押し切る形で同島守備隊(鶴屋部隊)の撤退作戦を発動した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=217-219}}<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]304-306頁ベララベラ島所在部隊の撤退</ref>。参加兵力は、夜襲部隊(三水司令官[[伊集院松治]]大佐直率の夜襲部隊(第10駆逐隊〈秋雲〔三水戦旗艦〕{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=381|ps=第二次ヴェラ・ラベラ海戦}}、風雲、夕雲第17駆逐隊〈磯風第27駆逐隊〈時雨、五月雨)、第22駆逐隊司令[[金岡圀三]]大佐指揮下の輸送部隊(文月{{Sfn|歴群64、睦月型|2008|p=136}}、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]、[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]])、収容部隊(第31駆潜隊、艦載水雷艇、大発動艇)及び護衛戦闘機である<ref name="叢書(96)306">[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]306-307頁転進作戦実施経過</ref>。これを迎撃するため米軍駆逐艦6隻が出動し、このうち3隻が第三日本軍水雷戦隊と交戦した{{Sfn|セ号作戦|2003|pp=220-221}}(10月6日-7日[[第二次ベララベラ海戦]])<ref name="叢書(96)306"/>{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150b|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}。日本側は「[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]」が沈没{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93c|ps=夕雲(ゆうぐも)}}、米軍は「[[シャヴァリア (DD-451)|シュバリエ]]」が沈没し他2隻が大破{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=381|ps=第二次ヴェラ・ラベラ海戦}}、ベララベラ島からの鶴屋部隊撤収も成功した{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=84-85|ps=▽ベララベラ海戦}}<ref>[[#戦史叢書96ガ島撤収後]]307-308頁ベララベラ島沖海戦</ref>。
 
==アメリカ側の教訓==
121 ⟶ 148行目:
 
歴史家の[[アントニー・ビーヴァー]]は「アメリカ軍にとって、ニュージョージア島をめぐる攻防戦は、その慢心を一気に冷やす経験だった」と述べた<ref>[[#第二次世界大戦1939-45(中)]]400項</ref>
 
==参考文献==
{{commonscat|New Georgia Campaign}}
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
*<!-- アキグモ1986 -->駆逐艦秋雲会編 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
*<!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=|year=2011|month=10|origyear=1999|title={{smaller|波濤の中の青春}} 駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}}}}
*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=|year=2006|month=07|title=駆逐艦入門 {{small|水雷戦の花形徹底研究}}|chapter=|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2217-0|ref={{SfnRef|駆逐艦入門|2006}}}}
*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=4|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref={{SfnRef|駆逐艦物語|2016}}}}
**(9-22頁){{small|当時「谷風」水雷長・海軍大尉}}相良辰雄『十七駆逐隊「谷風」水雷長のクラ湾夜戦 {{small|昭和十八年七月五日夜、新月轟沈の電探射撃と敵巡を屠った魚雷戦}}』
**(23-35頁){{small|当時「秋雲」通信士兼航海士・海軍中尉}}立山喬『陽炎型駆逐艦「秋雲」ベララベラ沖海戦 {{small|果たして敵か味方か。司令官の一瞬の逡巡と十駆逐隊「夕雲」の沈没}}』
**(36-49頁){{small|当時「天霧」水雷長・海軍大尉}}志賀博『特型「天霧」「夕霧」セントジョージ岬沖海戦 {{small|恐るべしバーク戦法。ブカ輸送に殉じた夕雲型巻波、大波と夕霧の悲劇}}』
**(50-62頁){{small|当時「陽炎」水雷長・海軍大尉}}高田敏夫『十五駆「陽炎」コロンバンガラ触雷沈没記 {{small|仕掛けられた罠。親潮、黒潮、陽炎を襲ったブラケット水道の悲運}}』
**(63-90頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』
*<!-- シゲモト2014 -->{{Cite book|和書|author=重本俊一|authorlink=|year=2014|month=07|origyear=2009|title={{smaller|体験的連合艦隊始末記}} 落日の日本艦隊|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2841-9|ref={{SfnRef|落日の日本艦隊|2014}}}}
*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }}
*<!-- タネガシマ2003 -->{{Cite book|和書|author=[[種子島洋二]]|coauthors=|year=2003|month=09|origyear=1975|chapter=|title=ソロモン海「セ」号作戦 {{small|コロンバンガラ島奇蹟の撤収}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2394-0|ref={{SfnRef|セ号作戦|2003}} }}
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* 駆逐艦秋雲会編 『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会、1986年
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
* 種子島 洋二著『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』、ISBN 978-4769823940
**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
* 千早 正隆著『日本海軍の戦略発想』 中公文庫 1995年、ISBN 4-12-202372-6
*<!-- レキシグンゾウ2008-05 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=2008|month=05|chapter=|pages=|title=睦月型駆逐艦 {{small|真実の艦艇史4 ― 謎多き艦隊型駆逐艦の実相}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第64巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=978-4-05-605091-2|ref={{SfnRef|歴群64、睦月型|2008}} }}
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
 
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
* アントニー・ビーヴァー、/平賀秀明(訳)『第二次世界大戦1939-45(中)』白水社、2015、ISBN 978-4560084366
==脚注==
{{Reflist|2}}
{{commonscat|New Georgia Campaign}}
{{Reflist}}
 
==関連項目==
* [[太平洋戦争]] - [[太平洋戦争の年表]]
* [[鼠輸送]]
* [[蟻輸送]]
 
{{Campaignbox-bottom|ソロモン諸島の戦い}}