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と、義経郎党の一人として名が記されているのみである。これは『[[平家物語]]』においても同様で、いずれも出自や業績、最期等については全く触れられていない。
 
『吾妻鏡』ほか『[[玉葉]]』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の[[悪僧]](僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は、義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧・千光房七郎(せんこうぼう しちろう)が[[北条時定 (北条平安政の甥)|北条時定]]([[北条時政|時政]]の甥)に捕縛されている。この七郎は『吾妻鏡』文治四年(1188年)[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]条によれば、悪徒浪人を集めて悪行を働いた咎でお尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されて武蔵坊弁慶の伝説が構成されたのではないかとする説がある。
 
== 能・歌舞伎 ==
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