「国博士」の版間の差分

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[[律令制#日本の律令制|律令制]]で諸国に1名ずつ置かれ、教師として、国司の監督の下で[[国学 (律令制の教育機関)|国学]]の学生(がくしょう)の教育・指導や課試を担当した。外国使臣の応接にもあたり、四度使として、任国の行政にも参画したという。
 
選叙令によると、[[式部省]]の判定による現地採用を原則とし、場合によっては傍の国(隣国)からの採用もやむを得ないとしたが、『[[続日本紀]]』によると、[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])には、従来(温故知新)の例からして国博士の任に適する人材はまれであり、傍の国にも該当者が存在しない場合は、省に申告し、([[太政官]]の)処分を経た上で中央から任命することになった<ref>『続日本紀』巻第二、文武天皇 大宝3年3月16日条</ref>。これにより、国博士の現地採用は有名無実化し、中央の[[大学寮]]の学生などから任命することが一般化した。
 
具体的に述べると、[[和銅]]元年4月([[708年]])の制では、「朝」(中央)より補せられた者の「考選」は[[史生]]と同じにすると、「土人(くにひと)・傍国(ちかくのくに)」の採用と区別されていたが<ref>『続日本紀』巻第四、元明天皇 和銅元年4月11日条</ref>、[[神亀]]5年8月([[728年]])の太政官奏上には、すべて「八考(8年間)を以て成選(じょうせん<ref>官吏が勤務評定を受けた結果、叙位の資格があると認められること</ref>)す」となり、博士1人で三四ヶ国を兼任することが可能になった<ref>『続日本紀』巻第十、聖武天皇 神亀5年8月9日条</ref>。[[宝亀]]10年閏5月([[779年]])の太政官奏上では学生の食糧持参のことも考えて、再度国ごとに1名とされ、「六考(6年間)成選」に変更されている<ref>『続日本紀』巻第三十五、光仁天皇 宝亀5年閏5月27日条</ref>。また、[[霊亀]]2年5月([[716年]])の制には、大学寮の学生で、修養不足なものについては、国博士に任命してはならぬ、としている<ref>『続日本紀』巻第七、元正天皇 霊亀2年5月22日条</ref>。