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'''手こね寿司'''(てこねずし)とは、[[志摩国|志摩地方]]南部に伝わる[[郷土料理]]であり、[[寿司#ちらし寿司|ちらし寿司]]の一種である。'''手こね'''と呼ばれることもある。
 
観光資源としての手こね寿司は[[醤油]]に漬け込んだ[[カツオ|鰹]]が使われることが多いが、地元で食べられるものは、必ずしも鰹に限られるわけではなく、鰹や[[マグロ|鮪]]などの赤身の魚が用いられることが多いものの、[[鯵]]などを使うこともあり、場合によっては魚を使用しないこともある。
 
好みにより、大葉や生姜、海苔などを用いる。
 
== 歴史 ==
伝承では、漁師が漁の合間に食べた食事がもとであり、考案したのは志摩町和具の漁師われている。つまり、沖での鰹漁に備え、ご飯は腐敗を防ぐ目的で酢飯に、また忙しいさなかに食べられるよう、獲れた鰹を切り身にして醤油漬けとし、この酢飯と鰹の切り身を手で混ぜて食べたのが始まりとされている。
 
しかし、魚の醤油漬けは、元来保存目的で発達したものであり、漁が忙しいさなかに獲れた鰹をわざわざ醤油漬けにするのは不自然であるなどの理由により、漁師の考案によるものとする伝承には疑義も提示されている。
考案したのは、志摩町和具の漁師といわれている。
 
俗説に、弘法大師がこの地へと訪れた際に伝えたとするものもある。
 
手こね寿司は、志摩国地方が鰹漁で栄えた頃に誕生したと言われている。[[志摩半島]]にある大王町波切では鰹漁が盛んであり、[[奈良時代]]から[[神饌]]として[[鰹]]を宮中に納めるなど古くから栄えていた。「波切」の字は[[飛鳥時代]]には「魚切」と書き、魚を加工していた事が伺える。
 
しかし、古代における鰹の食べ方は酢と醤油を混ぜた「[[醤酢]]」(ひしす)と呼ばれる物がありこれをかけた物が始まりではとも言われている。
 
名前の由来は、大王町船越の漁師寿司に由来するとも言われている。船越では文字通り、手で捏ねて酢飯と鰹を混ぜて作っていた。大王町波切の一部ではシャモジで混ぜるなどしている。
 
[[Category:寿司|てこねすし]]