「読売アンデパンダン展」の版間の差分

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誰でも自由に出品できると言うことで、趣味で創作活動を行う一般市民の出品が多かったが、その中に混じって若手の芸術家たちが作品を発表する場としても機能していた。読売新聞という巨大[[メディア]]による新人発掘の場ということで人気をよび、野心的な若手作家たちがこぞって出品した。
 
19561957年第九回に九州派のオチ・オサム、桜井孝身と共に出品その後九州派のメンバーも初出品した。
 
オチ・オサムは無審査の読売アンデパンダン展に目をつけ初出品したことでする。その後58年に高松次郎60年にネオタダ、もの派と続き戦後の日本美術の中で
 
大きな役割を果たす。アンデパンダン展作品の一部が東野芳明によって「反芸術」と名付られる、先鞭をつけたオチ・オサムと桜井孝身の功績は特筆すべきである。
 
オチ作品「サカダチした野郎」「色のハゲタもの」「ヤッテシマッタ」、桜井孝身作品「手(日本の風景)1-5」 
 
しかし1960年前後から、[[ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ]](ネオダダ)や(九州派)[[時間派]]などといった諸グループに属する若手の自称前衛芸術家たちが常軌を逸した作品を出品するようになり、一般市民や行政や主催者とトラブルを起こすことになる。末期には無法地帯と化し、[[1963年]]、第15回展をもって終了した。
 
ネオダダの[[赤瀬川原平]]、グループ鋭の[[工藤哲巳]]、グループ音楽の[[小杉武久]]など、読売アンデパンダン展をカオスに導いた自称芸術家の中には後に有名となった者も多くいる。読売アンデパンダン展への出展作品がきっかけで逮捕され、後に[[芥川龍之介賞|芥川賞]]作家となった赤瀬川原平が、[[1960年]]から[[1963年]]にかけてのネオダダの作家たちの活躍を著作にまとめている。