「E.T.A.ホフマン」の版間の差分

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E・T・A・ホフマンは[[1776年]][[1月24日]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]領[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]にエルンスト・テオドール・ヴィルヘルム・ホフマンとして生まれた。父クリストフ・ルートヴィヒ・ホフマン(Christoph Ludwig Hoffmann)はプロイセン宮廷裁判所の法律顧問であり、その家系はポーランド貴族バギエンスキー家に遡る。母ルイーゼ・アルベルティーネ(Luise Albertine、旧姓デルファー Doerffer)とはいとこ同士であり、デルファー家もまた法律家の家系であった。ホフマンは3人兄弟の末っ子だったが、両親が間もなく不仲となり、彼が2歳の時父が家を出て行った。ホフマンは実母のもとに転居した母に引き取られ、叔父オットー・ヴィルヘルム・デルファーが後見人となった。
 
[[ファイル:Hoffmann Hippel.png|thumb|190px|ホフマンとヒッペル(ホフマン画、[[1803年]])]]ホフマンは[[1782年]]にプロイセンの改革派が経営するブルク学校に入学するが、その一方で合唱指揮者兼オルガン奏者クリスチャン・ポドビエルスキーの下で音楽理論とピアノ演奏法を習った。1786年ころ、終生の友となるテオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル([[:de:Theodor Gottlieb von Hippel der Jüngere]])に出会う。[[1792年]]、ヒッペルとともに[[ケーニヒスベルク大学]]の法律科に入学。ホフマンはこの頃から法律の勉強の傍ら絵画、作曲、詩作とさまざまな芸術に手を染めており、また多くの文学作品を読んだ。当時ホフマンが読んでいた作家は[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]、[[ローレンス・スターン|スターン]]、[[トバイアス・スモレット|スモレット]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]、[[ジャン・パウル]]などであり、特にシラーの『見霊者』を熟読していた。
 
=== ディレッタントとしての生活 ===