「E.T.A.ホフマン」の版間の差分

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==== ワルシャワ - ポーゼン時代 ====
ワルシャワは当時南プロイセン州の首都であり、ホフマンは活気のあるこの都市で再び社交に楽しみを見出した。ホフマンは「音楽クラブ」の共同設立者となり、仕事の余暇に音楽演奏に参加したり、クラブのためにフレスコ画を制作し、詩作や作曲も行い、またイタリア語を習得した。この時期ホフマンが作曲したものには『変ホ長調交響曲』『ニ短調ミサ曲』、[[クレメンス・ブレンターノ|ブレンターノ]]の戯曲をもとにしたオペラ『招かれざる客』の舞台音楽などがある。またホフマンはヒッペルと並んで生涯の友となるユリウス・エドゥアルト・イッチヒ(1809([[1809]]からは「ヒッチヒ」と名乗っている)と出会い、ロマン主義文学の愛好者であった彼から[[ルートヴィヒ・ティーク|ティーク]]やブレンターノ、[[ノヴァーリス]]、また[[アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル|シュレーゲル]]兄弟がドイツ語に訳した[[ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ|カルデロン]]などの作品を紹介され、これらの文学作品に親しんだ。[[1805年]]7月には娘が誕生し、音楽の守護聖人[[聖セシリア|セシリア]]にちなんでツェツィーリアと名づけられた。
 
しかし幸福な日々は長く続かず、[[1806年]]11月にナポレオン軍がワルシャワに進駐し、プロイセンの政府機関が解体されてしまう。ホフマンは職を失っただけでなく、フランス軍の接収によって住居すら失った。ホフマンは家族を連れムニーツェク宮殿にあった「音楽クラブ」の屋根裏部屋に引っ越したが、やがて現金が底をつき、妻の縁者を頼って[[1807年]]1月にポーゼンに移った。しかしフランス軍当局にナポレオンに忠誠を誓うかワルシャワを去るか選択を迫られると、ホフマンは後者を選び、7月に再びベルリンに赴いた。
 
=== 芸術家への転身 ===