「近藤貞雄」の版間の差分

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その一方で、近藤は論理的、システマティックな野球観を持っていた。例えば不要な投げ込みの禁止、自主練習を重視するスタイルによるキャンプでのだらだらした長時間練習の廃止、判で押したような[[犠牲バント|バント]]作戦の否定、「[[アメフト野球]]」「[[プラトーン・システム|ツープラトン]]野球」と言われた攻撃と守備で選手を大きく入れ替える戦術などは、その野球観の代表例である。
 
1982年のシーズン最終戦、優勝を賭けた試合前にベンチ裏にビールをずらりと並べ、緊張するナインに「ぐいっと引っかけて度胸を据えて行け」と言ったが、ナインは誰も手を付けず、近藤一人だけが飲んでいたという逸話がある<ref>[[玉木正之]]「プロ野球大事典」[[新潮文庫]]</ref>が、[[鈴木孝政]]が「(この試合は[[小松辰雄]]が完投した事もあり、)用なしだから裏でビールを飲んでた」と発言している<ref>「中日ドラゴンズ 黄金時代の記憶」[[ベースボール・マガジン社]]</ref>。また[[木俣達彦]]によると、5回ごろに水を飲みに行ったところ鈴木と[[堂上照]]がベロベロになっており、ゲーム終盤にはみんな輪になって飲んでいたという<ref>「中日ドラゴンズ70年史」[[中日新聞社]]</ref>。
 
1981年にコーチ兼任になった[[星野仙一]]とはもとより信頼関係は低かったが、中日が優勝した1982年には、登録抹消はされなかったものの衰えが顕著になり登板機会が大幅に減少した。同年6月30日ナゴヤ球場での巨人戦9回表4対2で2点リードの場面で星野が通算3割3分以上打たれている苦手打者[[淡口憲治]]から同点本塁打を打たれる。牛島和彦に後を譲り降板<ref name="ザ・捕手 〜私が出会った監督・選手たち"/>。近藤は星野に「もう先発要員ではない。リリーフに回れ」と話したが、[[木俣達彦]]は「先発、完投を生きがいにしてきた星野にとって自分をすべて否定された思いに違いない」と記している<ref name="ザ・捕手 〜私が出会った監督・選手たち"/>。先発を外されたうえに、リリーフは牛島の指定席とあって、星野はこの年をもって引退する<ref name="ザ・捕手 〜私が出会った監督・選手たち"/>。星野はその後も二度中日監督を務めるなど球団内で圧倒的な権力を誇っていたが、阪神監督就任の際に中日OB会を除名されることとなった。近藤は「(中日OB会から)星野を追い出したのが俺の最大の功績だ」と親しい知人に漏らしていた。こうした経緯から、星野は近藤の訃報を聞いても通夜・葬儀への出席をしなかったが、死去翌日の一部新聞([[読売新聞]][[読売新聞大阪本社|大阪本社]]版等)には追悼のコメントを寄せていた。しかし近藤は、著書で星野について、現役時代や監督としての姿勢を高く評価しており、前述の1982年の引退勧告も、これからの中日のメリットのことを考えてのことだったこともあり、複雑な心境だったと述べていた<ref>『退場がこわくて野球ができるか』</ref>。