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[[383年]]8月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の軍を起こした<ref name="河出中国95"/><ref name="中華の崩壊92">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P92</ref><ref name="民族大移動95">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P95</ref>。前秦軍は苻融の軍が[[寿春]]を落とすなど優勢だったが、[[漢民族|漢族]]将軍でかつての東晋の梁州刺史[[朱序]]が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・[[謝石]]らに動揺した隙を突かれて大敗した<ref name="民族大移動95"/>。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の[[苻融]]と共に[[鮮卑]]族の[[慕容垂]]の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した([[ヒ水の戦い|淝水の戦い]])<ref name="民族大移動95"/>。
 
苻堅は12月に長安に帰還したが、この敗戦による前秦の支配力の動揺は激しかった<ref name="民族大移動97">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P97</ref>。かつての前燕皇族であった[[慕容泓]]と[[慕容沖]]は華陰(現在の陝西省[[華陰市]])で関中の鮮卑を糾合して長安に迫った<ref name="民族大移動97"/>。苻堅は慕容沖を破り、[[西燕]]を建国した慕容泓は6月に家臣に暗殺されるなどしてひとまずは沈静化した<ref name="民族大移動102">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P102</ref>。だが[[384年]]4月には慕容泓に敗北して罪に問われる事を恐れた姚萇が渭北の馬牧<!--地名-->(現在の陝西省[[興平市]]の東)に逃亡して自立し、[[後秦]]を建国した<ref name="民族大移動114">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P114</ref>。またそれより少し前の1月には慕容垂が現在の[[河南省]]で自立して[[後燕]]を建国するなどした<ref name="民族大移動104">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P104</ref>。苻堅はこれらの勢力を鎮定するために各地に軍を派遣したが前秦軍は各地で敗北し、またこの混乱で長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った<ref name="民族大移動97"/>。
 
[[385年]]5月、苻堅は慕容沖の西燕の勢力拡大を恐れて長安を脱出し、[[五将山]](現在の陝西省[[岐山県]]の西北)に逃れたが、7月に羌族の族長で後秦の姚萇に捕縛されて新平(現在の陝西省[[彬州市]])に連行されて禅譲を迫られた<ref name="民族大移動97"/>。しかし苻堅は拒絶したため、8月に姚萇により殺害された<ref name="民族大移動98">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P98</ref>。この時をもって前秦は事実上滅亡した。