「トラファルガーの海戦」の版間の差分

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日が暮れかかったおよそ18時までに各艦艇の交戦状態は解かれ、イギリス艦隊の圧倒的勝利で戦いは終わった。フランス・スペイン合同艦隊は、18隻の戦列艦が捕獲され、1隻の戦列艦が弾薬引火による大爆発で水没していた。死傷者は6,000名を数え、総指揮官[[ピエール・ヴィルヌーヴ|ヴィルヌーヴ]]を始めとする7,000名が捕虜となった。激戦だったのでおよそ半数の捕獲艦が損傷の大きさから牽引時に難破して海上放棄された。イギリス艦隊の喪失艦は無く、戦死者は400名、負傷者は1,200名であった。しかし、総指揮官[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]を失った。
[[ファイル:Battle of Trafalgar Casualties.svg|中央|サムネイル|400x400ピクセル|両軍の被害]]ネルソン提督の亡骸を乗せたイギリス艦隊旗艦「英ヴィクトリー」は、応急修理を受ける為にイギリス領[[ジブラルタル港|ジブラルタル軍港]]に向かい、その後イギリス本土へ帰還した。他の損傷の激しい戦列艦も同様にジブラルタルに向かい、軽微で済んだ戦列艦はそのまま[[カディス]]近海で遊弋した。フリゲート艦は逃走した敵艦の追跡に向かった。
[[ファイル:Retour a Rota Mayer.jpg|境界|右|フレームなし|200x200ピクセル]]
 
[[フェデリコ・グラビーナ|グラヴィーナ]]提督が率いるスペイン・フランス艦艇群は、夜陰に紛れた航海の後に[[トラファルガー岬]]から20km先にあるスペイン領[[カディス|カディス軍港]]に帰着した。『仏ネプチューネ』『西ラヨ』その他もまたカディス軍港に避難していた。『仏フォルミダブル』以下フランス艦3隻は、当初の地中海に向かう南航から北へ針路を変えて[[ビスケー湾]]に入りフランス領[[ロシュフォール|ロシュフォール軍港]]を目指したが、その途上の11月4日にイギリス艦隊に捕捉されて交戦の末に全艦拿捕された([[オルテガル岬の海戦]])。これを以ってトラファルガーの海戦を中心にして行われた一連の[[トラファルガー戦役|海上戦役]]は終結した。
 
== 海戦後の影響 ==
ヴィルヌーブ艦隊の敗北と、カディス軍港に帰還出来たフランス戦列艦がわずか5隻だったという報告を受けたフランス皇帝ナポレオンは、これを嵐による海難事故である事にして黙殺したとされる。ナポレオンも無謀な出撃命令で海上戦力を壊滅させ失い、後々の海軍作戦の芽まで潰してしまった事を後悔していたのかもしれない。1805年当時のフランス海軍では1814年までの期間に掛けて100隻以上の戦列艦建造計画が進められており、後にナポレオンのヨーロッパ制覇が成功していた事もあって十分に実現可能だった。これに対して1814年時点のイギリス海軍の戦列艦稼働数は、ナポレオンが下した大陸封鎖令による財政難の煽りを受けて最大99隻となっていた。あと一定の年数があれば、フランス海軍は数の力を以って、イギリス海軍と互角に渡り合えるだけの戦力を持てた可能性があり、その時こそイギリス上陸作戦も夢ではなくなっていた。
[[ファイル:Battle of Trafalgar Poster 1805.jpg|境界|右|フレームなし|200x200ピクセル]]
 
イギリスでは海戦勝利の報せに国内が沸き返ると共にネルソン提督の偉業が大々的に称えられた。この戦勝を記念して造られたのがロンドンの[[トラファルガー広場]]であり、その中央にはネルソン提督の記念碑が建てられている。敵対するフランスの海上戦力をほぼ消滅させた事で各海域の封鎖艦隊の任務が大幅に軽減され、財政的にも戦略的にも大きなゆとりが生まれた。1807年に発生した[[コペンハーゲンの海戦|対デンマーク作戦]]も有利に進められ、デンマーク艦隊がフランス海軍に編入される事を防いだ。しかし、海戦二ヵ月後に発生した[[アウステルリッツの戦い]]において、ナポレオンがオーストリアを屈服させた結果を聞いたイギリス首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は、ヨーロッパ市場の喪失を予期して翌年失意の内に病死した。ピットの予感は的中し、1806年から発布されたイギリス製品の締め出しを目的とする大陸封鎖令は、ナポレオンの快進撃に伴いヨーロッパ全域に広まり、経済活動を阻害されたイギリスは深刻な財政難に見舞われる事になった。同時にここからトラファルガー海戦の結果が純粋な勝利を越えてより高く評価されるようになった。もしフランス海軍が元のまま残存していたならば、市場経済上の優劣からイギリスの海上戦力は現状維持に制限されたままとなり、反対にフランスは大規模な艦隊を築き上げて再度上陸作戦を敢行し、イギリスは危機に瀕していただろうと考えられた。
イギリスでは[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ピット首相]]が祝宴を催したものの、[[ロンドン]]では、この海戦の勝利による昂揚に沸き立つこともなかった。ナポレオンはこの海戦の敗退による危機を、2ヶ月後の[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]の勝利で打開した。イギリスのピット首相は、アウステルリッツでの敗北にショックを受け、翌年失意の内に病死している。トラファルガーの勝利の意味とは、イギリスの海上制覇という部分にあり、ナポレオン戦争の戦局の一大転機ではなかった。[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]でナポレオンに勝利して初めて、トラファルガーの勝利の意味が評価されるようになるのである。
 
'''注:この段落は事実関係の確認が必要'''(しかしイギリスにとってこの戦いの勝利はフランス海軍にイギリス本土攻撃を阻止しただけでなかった。イギリス海軍は1807年のコペンハーゲンの戦いで積極的に行動する事が出来、1808年の戦役において、他国の艦隊がフランス海軍の手に落ちる事を防いだ。)
 
この戦勝を記念して造られたのがロンドンの[[トラファルガー広場]](Trafalgar Square)である。広場にはネルソン提督の記念碑が建てられている。
 
一方イギリスでトラファルガー海戦の真価が見直されるに伴い対するフランス国民にとってこの敗北[[トラウマ]]的事件して認識されるようにり、ありえって衝撃的敗北による衝撃指す「トラファルガー」と表現するようになっ比喩語が生まれた。[[モーリス・ルブラン]]の冒険推理小説『[[ルパン対ホームズ]]』において、フランスの怪盗[[アルセーヌ・ルパン]]がイギリスの名探偵[[シャーロック・ホームズ]]に送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。
 
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