「トラファルガーの海戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
186行目:
 
== 海戦後の影響 ==
 
=== フランス側 ===
[[ファイル:MuseoNaval Hispalois bajas españolas batalla Trafalgar.jpg|サムネイル|267x267ピクセル|カディス帰港レポート]]
ヴィルヌーブ艦隊の敗北と、カディス軍港に帰還出来たフランス戦列艦がわずか5隻だったという報告を受けたフランス皇帝ナポレオンは、これを嵐による海難である事にして黙殺したとされる。ナポレオンも無謀な出撃命令で海上戦力を失い、後々の海軍作戦の芽まで潰してしまった事を後悔していたのかもしれない。当時のフランス海軍では1814年までの期間に掛けて100隻以上の戦列艦建造計画が進められており、ナポレオンのヨーロッパ制覇が成功していた事もあって十分に実現可能だった。これに対して1814年のイギリス海軍の戦列艦稼働数は、ナポレオンが下した大陸封鎖令による財政難の煽りを受けて最大99隻となっていた。艦隊を温存してあと一定の年数を待てば、フランス海軍は数の力を以ってイギリス海軍と互角に渡り合えるだけの戦力を持てた可能性があり、その時こそイギリス上陸作戦も夢ではなくなっていた。ナポレオンが1804年から非現実的なイギリス上陸作戦を盛大に進めた背景には、共和主義革命をないがしろにした自身の皇帝即位に対する国内不満を逸らす目的もあったと考えられている。
 
=== イギリス側 ===
[[ファイル:Battle of Trafalgar Poster 1805.jpg|境界|右|フレームなし|200x200ピクセル]]
イギリスでは海戦勝利の報せに国内が沸き返ると共に、ネルソン提督の偉業が大々的に称えられた。この戦勝を記念して造られたのがロンドンの[[トラファルガー広場]]であり、その中央にはネルソン提督の記念碑が建てられている。敵対するフランスの海上戦力をほぼ消滅させた事で各海域の封鎖艦隊の任務が大幅に軽減され、財政的にも戦略的にも大きなゆとりが生まれた。1807年に発生した[[コペンハーゲンの海戦|対デンマーク作戦]]も有利に進められ、デンマーク艦隊がフランス海軍に編入される事を防いだ。しかし、トラファルガー海戦の二ヶ月後に発生した[[アウステルリッツの戦い]]で、ナポレオンがオーストリアを屈服させた結果を聞いたイギリス首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]は、ヨーロッパ市場の喪失を予期して翌年失意の内に病死した。ピットの予感は的中し、1806年から発布されたイギリス製品の締め出しを目的とする大陸封鎖令は、ナポレオンの快進撃に伴いヨーロッパ全域に広げられ、経済活動を阻害されたイギリスは深刻な財政難に見舞われるになった。

同時にここからトラファルガー海戦の結果がただの勝利を越えてより高く評価されるようになった。もしフランス海軍が元のまま残存していたならば、市場経済における財政上の優劣からイギリスの戦列艦保有数は現状維持に制限されたままとなり、反対にフランスは大規模な艦隊を築き上げて再度上陸作戦を敢行し、イギリスは危機に瀕していただろうと考えられた。フランス海軍は艦艇に加えて13,000名の海軍勤務経験者を失っており、人材面からも近年中の再建は不可能となっていた。これも全てトラファルガー海戦がもたらした結果であった。
 
イギリスでトラファルガー海戦の真価が見直されるに伴い、対するフランスではトラウマ的事件と認識されるようになって、衝撃的な敗北を示す「トラファルガー」と比喩語が生まれた。[[モーリス・ルブラン]]の冒険推理小説『[[ルパン対ホームズ]]』において、フランスの怪盗[[アルセーヌ・ルパン]]がイギリスの名探偵[[シャーロック・ホームズ]]に送りつけた挑戦状の中で「トラファルガーの敵討ち」と挑発しているように、その後の英仏の対決においてたびたび引き合いに出されるようになったのである。
 
=== 関連作品 ===
 
;[[パソコンゲーム]]
:*『トラファルガー海戦』[[CSK]]、1984年、[[PC-8800シリーズ]]。