「金正日」の版間の差分

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平壌第一初級中学校、南山高級中学校(現在の平壌第1高等中学校)卒業後、1960年[[9月1日]]に[[金日成総合大学]][[経済学部]][[政治経済学科]]に入学<ref>当時の北朝鮮では9月に入学・進学がおこなわれていた。</ref>。在学中の[[1961年]][[7月22日]]、[[朝鮮労働党]]に入党。[[1964年]][[3月30日]]に大学を卒業<ref>卒業論文は『社会主義建設における郡の位置と役割』(実際の作成者は大学の指導教授だった黄長燁)。</ref> した金正日は党中央委員会に勤務し、同年6月には[[朝鮮労働党組織指導部|党組織指導部]]の指導員となる。その後、党中央委員会の指導員、課長、副部長、部長を歴任し、1969年9月に党組織指導部部長に就任。また、党宣伝扇動部副部長や文化芸術部部長を兼任した。この間、北朝鮮独自の立場とされている[[主体思想|チュチェ思想]]の思想整備を担当した[[黄長ヨプ|黄長燁]]に師事していたこともある。
 
=== 権力の掌握 ===
[[1972年]]10月、党第5期中央委員会第5回総会で中央委員に選出され、[[1973年]]9月の党第5期中央委員会第7回総会で党中央委員会書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出された。さらに、[[1974年]][[2月13日]]の朝鮮労働党第5期中央委員会第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、翌[[2月14日]]には、金日成の後継者として「推戴」された<ref>既に[[1972年]][[12月22日]]の党第5期中央委員会第6回総会において金正日を「唯一後継者」とする秘密決定がおこなわれている。</ref>。同時期、北朝鮮版[[文化大革命]]<ref>「金正恩氏の後見人、張成沢氏は冷血な忠臣 2万5千人粛清の総責任者!」産経ニュース 2012年1月14日</ref>とも呼ばれる[[三大革命赤旗獲得運動]]を提唱して権力の確立をしていった。
 
ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された<ref>金元祚『凍土の共和国』p344。「党中央」の表記が最初に登場したのは『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』1974年2月14日付社説。</ref>。[[1980年]]には「党中央の明かり」という歌曲が作られ<ref>http://www.naenara.com.kp/ko/art/artist/index.php?4</ref>、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。同年[[10月10日]]の第6回党大会および党第6期中央委員会第1回総会で[[朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会|党中央委員会政治局常務委員]]、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に[[最高人民会議]]代議員に選出される<ref>以来、死去するまで最高人民会議代議員を務めた。</ref>。後継者内定後初の外遊だった1983年6月の訪中から帰国した際に[[中華人民共和国]]の[[改革開放]]を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判した金正日に対して中国の[[鄧小平]]は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄したことに焦った父・金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になった<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒|publisher=[[産経新聞]] |date=2015-10-23 |url=http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n1.html|accessdate=2016-10-18}}</ref>。
 
後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟[[金平一]]を推す義母[[金聖愛]]との間に激しい権力闘争があったと言われている<ref>李友情著『金正日入門』より。</ref>。同じ時期に金日成を称える[[プロパガンダ]]が高まっていったことから、父・金日成の[[カリスマ]]化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は[[1992年]][[4月25日]]に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。
 
権力の世襲に対する批判に対しては、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」、というのが公式の回答である。
 
金日成以来、国内の権力闘争により北朝鮮の政権中枢の役割を占めた[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]]([[抗日パルチザン|国外パルチザン]]派)が[[朝鮮人民軍]]を権力基盤としてきた一方で、金正日は党官僚の代表や行政官僚の利益代弁者として振舞ったと思われる時期があった。そのため、[[金日成]]死亡の少し前から朝鮮人民軍を掌握しようと腐心していたことが公式プロパガンダおよび人事配置からうかがえる。一方で、外交官経験者を比較的重用し始めていることも人事配置からうかがえる。朝鮮労働党大会は[[1980年]]の第6回大会以降、金正日の死後の2016年まで実施されなかった。
 
金正日は[[1990年]]5月24日、第9期最高人民会議第1回会議において国防委員会第一副委員長に選出され、軍事を掌握し始めた<ref>玉城素「[http://d-arch.ide.go.jp/browse/pdf/1990/102/1990102TPC.pdf 厳しい「孤立化・経済困難」脱出作戦 - 1990年の朝鮮民主主義人民共和国]」『アジア動向年報1991年』アジア経済研究所、1991年、p59。</ref>。さらに翌[[1991年]][[12月24日]]の第6期党中央委員会第19回総会において朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」され<ref>小牧輝夫・中川雅彦「[http://d-arch.ide.go.jp/browse/pdf/1991/102/1991102TPC.pdf 対外政策転換で突破口を模索 - 1991年の朝鮮民主主義人民共和国]」『アジア動向年報1992年』アジア経済研究所、1992年、p49。</ref>、[[1992年]]4月20日には朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。[[1972年]]に制定された[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]](1972年憲法)では、軍の統帥権は[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]にあり、朝鮮人民軍最高司令官と[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]は国家主席が兼務することが定められており、金正日の最高司令官就任は「超憲法的な措置」<ref>和田春樹『北朝鮮-遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、p261。</ref>であった。しかし1992年4月9日に同憲法が改正されると、最高司令官の規定は削除されるとともに、軍の統帥権は国家主席から[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]に委譲された。そして、[[1993年]][[4月9日]]の第9期最高人民会議第5回会議において国防委員会委員長に「推戴」され<ref>中川雅彦「[http://d-arch.ide.go.jp/browse/pdf/1993/102/1993102TPC.pdf 目標未達成で終了した第3次7カ年計画 - 1993年の朝鮮民主主義人民共和国]」『アジア動向年報1994年』アジア経済研究所、1994年、p40-41。</ref>、これにより金正日は軍の統帥権を掌握した。同時期、[[ソ連崩壊]]により[[北朝鮮クーデター陰謀事件]]を知った金正日は多くのソ連留学経験者を旧[[KGB]]の[[スパイ]]として粛清した<ref>李友情著「金正日入門第7章金正日を支える面々232-240ページ</ref>。
 
=== 最高指導者として ===