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'''スタニスラス=マリー・マイヤール'''(1763年12月11日 - 1794年4月11日)は、バスティーユの義勇兵の隊長だった。彼は国民衛兵としてバスティーユ襲撃に参加し、要塞に突入した最初の革命家であった。マイヤールはまた1789年10月5日に[[ヴェルサイユ宮殿]]へ行進した女性たちに同行し、そこで起こった出来事についてのちに裁判所で証言した。 <ref> http://chnm.gmu.edu/revolution/d/473/ </ref>
マイヤールは1789年7月14日の[[バスティーユ襲撃|バスティーユの奪取]]に参加した。以後、「バスティーユの義勇兵の隊長」という称号を与えられて、彼は革命の区切りとなる出来事の大部分に積極的に参加した。彼は新たに「[[エベール]]派」の戦列に加わり、[[
1790年に国民衛兵の隊長に任命された彼は、1791年7月17日、共和国の創設を宣言した[[シャン・ド・マルスの虐殺|シャン・ド・マルスの請願]]に署名した。1792年9月には[[パリ・コミューン (フランス革命)|パリのコミューン]]の命令によって、最近逮捕された囚人の大量虐殺を終わらせるために、彼は論争の的になる役割を果たした。彼は虐殺を援助し、扇動したように見え、彼がいることによって虐殺が合法的なものに見えるような雰囲気を作るのに手を貸したが、一方で他の人たちは、彼が事件の中で「天佑神助のような役割」を持っていたと信じている<ref>Jules Claretie, Ruines Et Fantômes</ref>。後世の人々は彼を「{{仮リンク|アベイ監獄|en|Prison de l'Abbaye}}の偉大な裁判官」または「殺人者の長」として認識している。
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