「スタニスラス=マリー・マイヤール」の版間の差分

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'''スタニスラス=マリー・マイヤール'''(1763年12月11日 - 1794年4月11日)は、バスティーユの義勇兵の隊長だった。彼は国民衛兵としてバスティーユ襲撃に参加し、要塞に突入した最初の革命家であった。マイヤールはまた1789年10月5日に[[ヴェルサイユ宮殿]]へ行進した女性たちに同行し、そこで起こった出来事についてのちに裁判所で証言した。 <ref> http://chnm.gmu.edu/revolution/d/473/ </ref>
 
マイヤールは1789年7月14日の[[バスティーユ襲撃|バスティーユの奪取]]に参加した。以後、「バスティーユの義勇兵の隊長」という称号を与えられて、彼は革命の区切りとなる出来事の大部分に積極的に参加した。彼は新たに「[[エベール]]派」の戦列に加わり、[[公安委員会|公安委員会 (フランス革命)|公安委員会]]によって革命に関連した活動を行う警察組織を設立する任務を与えられた。彼はまた1789年10月5日と6日に起こった「[[ヴェルサイユ行進]]」の指導者の1人であったが、彼が参加したのは10月5日のみであった。ヴェルサイユ行進は、革命を侮辱したと思われる[[近衛兵]]に対してパンと正義を要求するために、魚売り女や市場の女たちがヴェルサイユまで行った有名な行進であるが、 マイヤールは、女性たちの苦情についての代弁者となり、[[憲法制定国民議会|憲法制定議会]]の前で次のような声明を発表した。「我々はパンを求めるとともに、愛国的な徽章を侮辱した近衛兵の処罰を要求するためにヴェルサイユにやって来た」。声明の後のほうは、ヴェルサイユ宮殿にやって来た{{仮リンク|フランドル連隊|fr|Régiment de Flandre}}のために1789年10月2日に開かれた宴会で、出席した近衛兵たちが国家の徽章を足下に踏みつけたという、広く信じられていた噂を元にしている。行進の参加者たちは5日に王妃や議会で目にした聖職者の議員たちを侮辱し、宮殿の警備兵と衝突するなど過激な行動をとった。(6日はマイヤールが不在だったために災害そのものといった有様となった。2人の近衛兵が殺害され、行進の参加者たちは宮殿に押し入り、王妃の部屋に侵入した<ref>Simon Schama, Citizens pp 467 </ref>。 )
 
1790年に国民衛兵の隊長に任命された彼は、1791年7月17日、共和国の創設を宣言した[[シャン・ド・マルスの虐殺|シャン・ド・マルスの請願]]に署名した。1792年9月には[[パリ・コミューン (フランス革命)|パリのコミューン]]の命令によって、最近逮捕された囚人の大量虐殺を終わらせるために、彼は論争の的になる役割を果たした。彼は虐殺を援助し、扇動したように見え、彼がいることによって虐殺が合法的なものに見えるような雰囲気を作るのに手を貸したが、一方で他の人たちは、彼が事件の中で「天佑神助のような役割」を持っていたと信じている<ref>Jules Claretie, Ruines Et Fantômes</ref>。後世の人々は彼を「{{仮リンク|アベイ監獄|en|Prison de l'Abbaye}}の偉大な裁判官」または「殺人者の長」として認識している。