「源義忠暗殺事件」の版間の差分

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こうして甲賀山に入った義綱一行に対し、[[白河天皇|白河院]]は棟梁を継いだばかりの義忠の甥[[源為義]]に義綱父子を追討するように命じた。そこに、源義光までもが為義の後押しを行い始めたので義綱父子はますます窮地に追い込まれる。
 
為義軍が甲賀山への攻撃を開始すると義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。しかし、無実であるのに降伏するとは到底納得できない息子たちは憤激した。特に白河院の[[判官代]]となっていた義弘は主人である白河院からの追討ということもあり、自分たちの身の潔白を証明するための自害に意を強くしており、父義綱にも潔く[[切腹]]するように言い寄った。それでも義綱は投降しようとしたので義弘は父に範を示そうと兄弟たちの中で真っ先に自害することにし、高い木に登ってそこから谷底に飛び降りて投身自殺した。その後、次男[[源義俊|義俊]]も兄に続いて投身自殺、四男[[源義仲 (義綱流)|義仲]]は為義軍が放った炎に入って焼身自殺、五男[[源義範|義範]]は切腹し、六男[[源義公|義公]]も自害して果てた。こうして次々と息子たちが自害していく中でただ一人残された義綱はついに[[甲賀郡]]の[[大岡寺]]で出家し、為義に投降した。
 
一方で藤原季方邸に籠る義明と季方も白河院の命を受けた美濃源氏で検非違使判官[[源重時]]による攻撃を受けた。重時は最初に義忠暗殺犯として逮捕された源重実の弟であった。義明軍は重時軍に二百余人の死傷者を出させるほどの奮戦をしたが最後は義明、藤原季方二人とも自害して果てた。