「武田正憲」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
51行目:
[[1890年]](明治23年)[[4月25日]]、[[東京府]][[東京市]][[芝区]](現在の[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]])に生まれる。父は[[和歌山県]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[中尉]]の武田武守である<ref name="全集">[[#キネマ旬報1979|キネマ旬報1979]]、p.335</ref>。[[暁星中学校・高等学校|暁星中学校]]を経て[[早稲田大学]]専門部英文科に入学する<ref name="全集" />。
 
[[1909年]](明治42年)5月、[[坪内逍遥]]らの文芸協会演劇研究所に1期生として入る<ref name="全集" />。同期生には[[佐々木積]]、[[松井須磨子]]、[[山川浦路|三田千栄子]]、[[森英治郎]]らがいた。この年の夏に[[上山草人]]・[[山川浦路]]夫妻の家に同居している<ref>[https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=790&item_no=1&page_id=13&block_id=17 細江光「上山草人年譜稿1 : 谷崎潤一郎との交友を中心に」]、2015年9月20日閲覧</ref>。[[1911年]](明治44年)4月に研究所を卒業し、同年5月の『ハムレット』を卒業公演として[[文芸協会]]に加入。[[1913年]](大正2年)5月、[[市川猿之助 (2代目)|2代目市川猿之助]]らと吾声会を創立し、[[イプセン]]作の『鴨』を[[有楽座 (明治・大正)|有楽座]]で上演する<ref name="全集" />。[[1914年]](大正3年)2月には文芸協会を脱退した[[島村抱月]]・松井須磨子の[[芸術座 (劇団)|芸術座]]に加わるが、松井と対立して同時に入った[[勝見庸太郎]]とともに退団、3月に勝見や[[守田勘弥 (13代目)|13代目守田勘弥]]らと黒猫座を創立して[[シュニッツラー]]の『恋愛三昧』を上演する<ref name="全集" />。
 
[[1915年]](大正4年)9月、[[川村花菱]]とともに[[神田 (千代田区)|神田]]で新日本劇を旗揚げし、[[佐藤紅緑]]を顧問に迎える。新日本劇は新派と新劇の中間をねらって結成され、新しい大衆演劇を目指そうとしたが失敗し、ドサ回りに出る。[[1917年]](大正6年)9月、浅草・[[常盤座]]へ[[新派]]にまじって出演したのをきっかけに新日本劇を再建、[[1918年]](大正7年)には新日本劇を主宰しながら[[原信子]]を招いて原信子歌劇団を結成させ、[[観音劇場]]を拠点に活動する<ref name="全集2">[[#キネマ旬報1979|キネマ旬報1979]]、p.336</ref>。[[1919年]](大正8年)、松竹新派に招かれて新劇を離れ、2月の[[明治座]]に[[井上正夫]]らと一座したのをはじめ、[[1921年]](大正10年)には[[花柳章太郎]]、[[柳永二郎]]、[[伊志井寛]]らと新劇座を結成する。昭和に入ると[[東京]]・[[大阪]]の大劇場から姿を消した<ref name="全集2" />。