「ニコラ・ド・コンドルセ」の版間の差分

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今日定着しているコンドルセのイメージは革命期以降の社会的・政治活動に由来するものが多い。彼は人類愛と資本[[寡占]]への批判をも含む人道的汎人文主義者として[[1788年]]に「黒人友の会」出稿。[[1789年]]のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、[[1790年]]には[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|アベ・シェイエス]]らと1789年協会を設立、[[ヴァレンヌ事件]]以降、[[共和主義者]]の論客となり、[[1791年]]9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となっている。[[1792年]]9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り[[1793年]]2月ジロンド憲法草案を議会に上程。同年のパリコミューンの事件で[[ジロンド派]]は没落。6月14日山岳派憲法が可決。[[恐怖政治]]に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、現在の[[6区 (パリ)|パリ6区]]セルヴァンドニ通り<!--当通りフランス語版参照-->にあるヴェルネ夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。該著作は、[[オーギュスト・コント]]社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、[[天文学]]と、[[占星学]]、[[純粋数学]]、[[神学]]といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、[[文学]]、[[経済学]]、[[論理学]]、[[社会科学]]といった人間の行動と生活を論理的に究明する[[人文科学]]へ発展してきており、進化の過程において、[[心理学]]と社会科学がようやく生まれてきたその[[精神史]]と社会科学の重要性を論じ、[[オーギュスト・コント]]の理論の礎を「人類の精神の進歩」の最も大切な学的領域として捉えている。その後、令状通りに逮捕され獄中で自殺。51歳だった。
 
妻は[[アダム・スミス]]や[[トマス・ペイン]]の主要著書を最初に本格的にフランス語翻訳したことで知られる[[ソフィー・ド・グルシー]]。[[ナポレオン戦争]]で活躍した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の腹心[[エマニュエル・ド・グルーシー]]元帥の2歳上の姉としても知られる<!--エマニュエル・ド・グルーシーのフランス語版英語版参照--->。聡明な彼女の存在は女性参政権などコンドルセの[[フェミニズム]]思想に少なからぬ影響を与えたと言われている<ref>http[[://fr.wikipedia.org/wiki/:Sophie_de_Condorcet]]</ref>。
 
== 日本語訳された著作 ==