「エドマンド・バーク」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Hope and Lightning (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
出典の示されない記述を削除ほか |
||
31行目:
主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治[[政党]]の定義づけをおこない、近代[[政治哲学]]を確立した。文章家・演説家でもあ
== 哲学 ==
50行目:
文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、文明の政治経済社会に仮に、人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする。実際に、このバーク哲学の思惟と予見どおりに、[[フランス革命]]は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、フル稼働する[[ギロチン]]に個人の生命を奪われ、革命権力の恣意に財産を奪われ、血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚となった。
*バーク哲学の主要概念は、“慎慮”(''prudence'')、“固
*逆にバークが断固として拒絶した概念は、“平等”(''equality'')、“人権”(''right of man'')、“人民主権”(''popular sovereignty'')、“抽象”(''abstruction'')、“理性”(裸の理性、''naked reason'')、“進歩”(''progress'')、“
=== 自然の摂理===
108行目:
米国においては、[[エドワード・コーク|コーク]]/[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]による「[[法の支配]]」の法哲学が、[[アレクサンダー・ハミルトン]]らによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の[[朝鮮戦争]]の勃発に伴って、国を挙げて反共に思想武装するためであり、[[ラッセル・カーク]]らに先導されて大ブームとなった。そして、1981年に大統領になった[[ロナルド・レーガン]]は、反共反ソであっただけでなく、米国史上初めて“バーク保守主義”を信奉する大統領であった。
フランスにおいては、初のバーク主義者は[[アレクシ・ド・トクヴィル|トクヴィル]]であり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 1840年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき、反転して全体主義体制に至るとのト
バーク哲学が事実上まったく導入運用されなかったのは、ドイツとロシアである。
== 著作 ==
145行目:
[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を[[伊藤博文]]の秘書官に任用して、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは[[小松春雄]]による研究、これに[[岸本広司]]が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。
|