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主著は[[1790年]]の『[[フランス革命の省察]]』(原題:''Reflections on the Revolution in France'')であり、この本は保守主義の[[バイブル]]とされる。[[フランス革命]]を全否定して、[[ジャコバン派]]の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に[[美学]]を体系化したものとして有名である。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
 
政治家としては、[[絶対王政]]を批判し、[[議会政治]]を擁護した。議会における「国民代表」の理念を提唱したり、近代政治[[政党]]の定義づけをおこない、近代[[政治哲学]]を確立した。文章家・演説家でもあり、{{要出典範囲|バークの著作は今日でも[[英文学]]に重要な位置を占めており、イギリスの国会議員にはバークで演説を訓練すものが多い|date=2018-08}}
 
== 哲学 ==
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文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、文明の政治経済社会に仮に、人間の知力や理性に基づく“設計”や“計画”が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする。実際に、このバーク哲学の思惟と予見どおりに、[[フランス革命]]は、人間の理性を絶対視し、既存の教会制度を否定し「理性の神」を崇拝した結果、フル稼働する[[ギロチン]]に個人の生命を奪われ、革命権力の恣意に財産を奪われ、血塗られた無法地帯の阿鼻叫喚となった。
 
*バーク哲学の主要概念は、“慎慮”(''prudence'')、“固観念”(''prejudice'')、“時効”(''prescription'')、“黙諾仮定”(''presumption'')、“相続・世襲”(''inheritance'')、“[[法の支配]]”(''rule of Law'')、“慣習”(''convention,customs'')、“伝統”(''tradition'')、“私有財産”(''property'')などである。
 
*逆にバークが断固として拒絶した概念は、“平等”(''equality'')、“人権”(''right of man'')、“人民主権”(''popular sovereignty'')、“抽象”(''abstruction'')、“理性”(裸の理性、''naked reason'')、“進歩”(''progress'')、“しく採り入れたもの”(''innovation'')、“民主主義”(''democracy'')、“人間の”(''will of man'')、“人間の無謬性”(''perfectibility of man'')などである。
 
=== 自然の摂理===
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米国においては、[[エドワード・コーク|コーク]]/[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]による「[[法の支配]]」の法哲学が、[[アレクサンダー・ハミルトン]]らによって継承されていた。バーク哲学が本格的に流入したのは、1950年の[[朝鮮戦争]]の勃発に伴って、国を挙げて反共に思想武装するためであり、[[ラッセル・カーク]]らに先導されて大ブームとなった。そして、1981年に大統領になった[[ロナルド・レーガン]]は、反共反ソであっただけでなく、米国史上初めて“バーク保守主義”を信奉する大統領であった。
 
フランスにおいては、初のバーク主義者は[[アレクシ・ド・トクヴィル|トクヴィル]]であり、その主著『アメリカのデモクラシー』(1835年 - 1840年)の主概念「多数者の専制」は、バークの概念を借用しているし、「平等」が国家社会をアナーキーに解体していき、反転して全体主義体制に至るとのトクヴィルのモチーフは『フランス革命の省察』そのものである。{{要出典|だが、フランスでは反バーク的なルソーの影響はまだまだ絶大で、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]や[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]や[[ジークムント・フロイト|フロイト]]などとこのルソーを混淆して、1968年頃には[[ミシェル・フーコー|フーコー]]らの[[ポストモダン]]思想を構築している。|date=2014年8月}}
 
バーク哲学が事実上まったく導入運用されなかったのは、ドイツとロシアである。
バーク哲学が事実上まったく導入運用されなかったのは、ドイツとロシアである。ドイツでは{{要出典|ルソー直系の[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]を通じて[[ドイツ歴史学派]]や[[マルクス主義]]が隆盛し、マルクス主義から[[フランクフルト学派]]の社会学などが発展した|date=2016年6月}}。なお、{{要出典|このドイツ主流派の流れと対立する思想の[[イマヌエル・カント]]は『[[判断力批判]]』において、バークの美学・崇高論を参照している|date=2016年6月}}。{{要出典|カントの思想は一部[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]に引き継がれた|date=2014年8月}}が、結局のところドイツでは現代にいたるまで、{{要出典|このカント的|date=2014年8月}}あるいはバーク的といえる思想は現実社会で具現化しなかった。
 
== 著作 ==
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[[井上毅]]は、この金子のバーク抄訳を読んでバークに感動し、金子を[[伊藤博文]]の秘書官に任用して、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。
 
{{要出典範囲|しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるため、ドイツ法を範にされることになった。その後、東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおき、イギリス憲法学を排除したことによって、[[エドワード・コーク|コーク]]や[[ウィリアム・ブラックストン]]とともに、バークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本では[[ドイツ観念論]]や[[マルクス主義]]がもてはやされたことから、バークの存在は省みられなかった。|date=2018-08}}
 
バークに関する研究が始まるのは[[第二次世界大戦]]後のことで、まずは[[小松春雄]]による研究、これに[[岸本広司]]が続き、日本においてもある程度の研究基盤ができた。