「益子焼」の版間の差分

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[[江戸時代]]末期、[[嘉永]]年間に[[常陸国]][[笠間藩]](現[[笠間市]])で修行した[[大塚啓三郎]]が益子に窯を築いたことにより始まったとされる。
 
益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に[[水がめ]]・[[火鉢]]・[[壺]]などの日用品として製作されていた。その後[[1927年]]よりから創作活動を開始した[[濱田庄司]]によって[[花器]]・[[茶器]]などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。
[[1959年]]には、[[加守田章二]]が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた<ref>永峰美佳『[https://books.google.co.jp/books?id=n9eFAwAAQBAJ&pg=PA141&lpg=PA141&dq=%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC+%E6%B5%81%E3%81%97%E6%8E%9B%E3%81%91&source=bl&ots=zoYNaDtYef&sig=3EvVYM_b1ZtdXvtKHffgyXxR848&hl=ja&sa=X&ved=0CLkBEOgBMBpqFQoTCOy5vOK4k8kCFaLmpgodKHUJPg#v=onepage&q=%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC%20%E6%B5%81%E3%81%97%E6%8E%9B%E3%81%91&f=false 普段使いの器を探して やきものの里めぐり]』Jtbパブリッシング、2014年、pp.140-144.</ref>。
 
[[1979年]]には[[通商産業省]](現、[[経済産業省]])より、から[[伝統工芸品|伝統的工芸品]]に指定された。また、[[イギリス]]の[[陶芸家]][[バーナード・リーチ]]などの普及活動がある。
 
== 特徴 ==