「テオドール・シャセリオー」の版間の差分

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[[1846年]]、大作『護衛を引き連れたコンスタンティンのカリフにしてハラクタスの首長アリ・ベン・ハメト』を描きあげた直後、シャセリオーは最初のアルジェリア旅行をした。その旅とそれ以降の旅で描いたスケッチから、『臣下を訪問するアラブの首長』(1949年)、『バルコニーのユダヤ人女性』(1949年)を制作した。後期の代表作『テピダリウム』(1853年。[[オルセー美術館]]蔵)はたくさんの女性たちがお風呂で濡れた体を乾かしている姿が描かれている。この舞台設定は、シャセリオーが[[1840年]]に行った[[ポンペイ]]旅行にインスパイアされたものである。モニュメントでは、[[1844年]]に国から依頼を受け、[[1848年]]に完成した、フランス会計院の大階段の装飾がある。しかし、この装飾は、[[パリ・コミューン]]時代の[[1871年]]5月に起きた火事でかなりの損害を受け、復元されたわずかな断片は現在[[ルーヴル美術館]]に保管されている。
 
病気を患った後、サン・ロックならびにサン・フィリップ・デュ・ルール教会の装飾壁画を手掛けるが、病気が悪化して、1856年10月188日にパリで死去した。37歳没。
 
シャセリオーの作品は[[ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ]]、[[ギュスターヴ・モロー]]の作風に強い影響を与えた。さらに、シャヴァンヌらの作品を通じて、[[ポール・ゴーギャン]]、[[アンリ・マティス]]の作品にも反映されていると言われている<ref>Guégan et al., 2002, p. 287.</ref>。