「ナザレ」の版間の差分

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[[637年]]、[[イスラム教徒]]による[[パレスチナ]]地区の征服が始まり、この地区にイスラム教がもたらされる。その後の400年間で、イスラム教徒の住人の割合が増加するが、アラブ・キリスト教徒も少数派として残る。[[第1回十字軍]]以降、パレスチナは長く争いが続き、地元の[[サラセン人]]とヨーロッパ人による支配が幾度となく交代する。[[ガリラヤ]]とナザレの支配者も、その支配者が信仰する宗教徒を増やしながら、頻繁に入れ代わった。
 
[[1099年]]、十字軍の[[タンクレード (ガリラヤ公)|タンクレード]]がガリラヤを占領し、ナザレを首都に定める。古い[[:en:Scythopolis|Scythopolis]]教区も、[[エルサレム王国]]時代からの4つの大司教区の1つである{{仮リンク|ナザレ大司教|en|Archbishopric of Nazareth}}の下に移される。[[1187年]]、[[サラディン]]が[[ヒッティーンの戦い]]に勝利し、街は再びイスラムの支配下となる。残った十字軍やヨーロッパ人の牧師聖職者は、強制的に街から追い出された。
 
[[1263年]]、[[マムルーク朝]][[スルタン]]の[[バイバルス]]が、パレスチナの地から、キリスト教徒の残党を追い払う命令の中で、ナザレにあったキリスト教徒の建築物を破壊し、キリスト教の牧師が町に立ち入ることを禁止した。ナザレにいたキリスト教徒はこの地で生き続けていたが、住民規模は縮小した。[[1294年]]にここを訪れたキリスト教巡礼者は、岩屋を守る小さな教会しかなかったと報告している。
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[[1861年]]、フランシスコ会がメンザ・クリスティ聖堂 (knessith menzah krist'i) を建設。
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== 地理 ==
*[[クファール・カナ]] Kphar Kanna