「橋津川の戦い」の版間の差分

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'''橋津川の戦い'''(はしづがわのたたかい)は[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]に[[武田国信]]・[[国人|伯耆国人衆]]と[[尼子氏]]との間で起きたいのこと
 
== 戦いの成立年月日 ==
通説ではこの戦いは'''天文9年10月'''に起きたとされるが、近年これを疑問視する見方が出されている。
通説ではこの戦いは'''天文9年10月'''に起きたとされるが、近年これを疑問視する見方が出されている。理由としては、この戦いに参加した伯耆[[国人]]衆の多くが天文9年当時、[[尼子氏]]に属していた事実が明らかになったこと、『[[陰徳太平記]]』などに見える[[因幡国|因幡]]・[[但馬国|但馬]]両[[山名氏]]が協力して戦いの支援を行ったとする記述が誤りであることが明らかになったことなどが挙げられる。(この当時、因但両山名氏は[[家督]]などの問題で抗争中であった)これらを総合して現在ではこの戦いを因幡の[[山名誠通]](久通)と但馬の[[山名祐豊]](宗詮)の対立の延長線上に位置しているものと捉え、「佐々木系図」に見える[[尼子豊久]]の討死時期である'''天文15年6月'''に起こったとする見方がなされるようになった。本項でもこの説に従って記述をする。
 
通説ではこの戦いは'''天文9年10月'''に起きたとされるが、近年これを疑問視する見方が出されている。理由としては、この戦いに参加した伯耆[[国人]]衆の多くが天文9年当時、[[尼子氏]]に属していた事実が明らかになったこと、『[[陰徳太平記]]』などに見える[[因幡国|因幡]]・[[但馬国|但馬]]両[[山名氏]]が協力して戦いの支援を行ったとする記述が誤りであることが明らかになったことなどが挙げられる(この当時、因但両山名氏は[[家督]]などの問題で抗争中であった)これらを総合して現在ではこの戦いを因幡の[[山名誠通]](久通)と但馬の[[山名祐豊]](宗詮)の対立の延長線上に位置しているものと捉え、「佐々木系図」に見える[[尼子豊久]]の討死時期である'''天文15年6月'''に起こったとする見方がなされるようになった。本項でもこの説に従って記述をする
== 戦いの背景 ==
天文年間、但馬の山名宗詮(祐豊)と因幡の山名久通(誠通)は家督などを巡って対立し合っていた。山名久通の後ろには[[尼子氏]]が控えており、山名宗詮は[[大内氏]]と手を結ぶことによりこれを挟撃しようとしていた。天文13年([[1544年]])[[夏|初夏]]、[[尼子晴久]]が因幡に侵攻すると但馬山名氏は尼子氏と和睦を結び、因幡から撤退したが、翌天文14年([[1545年]])に入ると再び山名久通への攻勢を強めた宗詮は[[武田国信]]を久通のもとから引き抜き、[[鳥取城]]の強化を進めた。天文15年([[1546年]])[[4月 (旧暦)|4月]]、[[柳原資定]]の仲介で両者は再び和睦を結ぶも宗詮はすぐにこれを破棄した。同年6月、久通との決着をつけるためには尼子の支援を断つ必要があると考えた宗詮は武田国信を大将と定め、伯耆国人衆と共に[[伯耆国]]へ出兵させた。
 
これらを総合して現在ではこの戦いを因幡の[[山名誠通]](久通)と但馬の[[山名祐豊]](宗詮)の対立の延長線上に位置しているものと捉え、「佐々木系図」に見える[[尼子豊久]]の討死時期である'''天文15年6月'''に起こったとする見方がなされるようになった。本項でもこの説に従って記述をする。
== 戦いの経過 ==
 
== 戦いの背景 ==
天文年間、但馬の山名宗詮(祐豊)と因幡の山名久通(誠通)は家督などを巡って対立し合っていた。山名久通の後ろには[[尼子氏]]が控えており、山名宗詮は[[大内氏]]と手を結ぶことによりこれを挟撃しようとしていた。
 
天文年間、但馬の山名宗詮(祐豊)と因幡の山名久通(誠通)は家督などを巡って対立し合っていた。山名久通の後ろには[[尼子氏]]が控えており、山名宗詮は[[大内氏]]と手を結ぶことによりこれを挟撃しようとしていた。天文13年([[1544年]])[[夏|初夏]]、[[尼子晴久]]が因幡に侵攻すると但馬山名氏は尼子氏と和睦を結び、因幡から撤退したが、翌天文14年([[1545年]])に入ると再び山名久通への攻勢を強めた宗詮は[[武田国信]]を久通のもとから引き抜き、[[鳥取城]]の強化を進めた。天文15年([[1546年]])[[4月 (旧暦)|4月]]、[[柳原資定]]の仲介で両者は再び和睦を結ぶも宗詮はすぐにこれを破棄した。同年6月、久通との決着をつけるためには尼子の支援を断つ必要があると考えた宗詮は武田国信を大将と定め、伯耆国人衆と共に[[伯耆国]]へ出兵させた。
 
== 戦いの経過 ==
天文15年6月下旬、伯耆へ出陣した7000余騎の武田・伯耆衆の混成軍は[[湯梨浜町|泊]]の[[河口城]]を攻略、元城主の[[山名久氏]]を入れた後に[[河村郡]]馬野山に兵を進めた。
 
橋津口においては両軍が橋津橋のたもとに対峙していた。合戦は橋上で行われ、両軍の一進一退の激戦となった。しかし、両軍とも後陣の者が押しかけてきたために橋が崩れ、多くの者が川に投げ出された。南条宗勝は橋上で吉田左京亮を追い詰めるなど優勢であったが、橋が崩れたために馬もろとも川に投げ出されてしまった。多くの者が溺死する中、南条宗勝は付近の漁師に救助され、かろうじて脱出に成功した。
 
== 戦いの影響 ==
武田らが伯耆で尼子と戦っている間、[[山名祐豊|山名宗詮]]は[[因幡国]]において[[山名久通]]を追い詰めていた(『[[陰徳太平記]]』の伝える山名祐豊の[[鳥取市|鳥取]]滞在はこのことを指しているようである)久通の重臣である[[新山城]]番の[[中村政重]]を引き抜くことに成功した宗詮は[[布勢天神山城]]を攻撃した。攻撃後、立見峠に久通を誘い出した宗詮は新山城からの伏兵と共にこれを殺害した。ちなみに久通の殺害は橋津川の戦いと並行して行われたと見られている。橋津川では負けたものの、久通の殺害に成功した宗詮はこの後、半年をかけて因幡内の久通勢力の掃討を行った。[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])の[[冬]]には因幡一円は但馬の勢力下に置かれ、[[守護]]には但馬方の人間が送り込まれた。しかし、南因幡の山間部には依然として[[因幡毛利氏]]、[[矢部氏]]、[[草刈氏]]などの反但馬勢力が根強く残っており、宗詮はこの後もこれらの対応に苦慮していくことになった
 
久通の重臣である[[新山城]]番の[[中村政重]]を引き抜くことに成功した宗詮は[[布勢天神山城]]を攻撃した。攻撃後、立見峠に久通を誘い出した宗詮は新山城からの伏兵と共にこれを殺害した。ちなみに久通の殺害は橋津川の戦いと並行して行われたと見られている。橋津川では負けたものの、久通の殺害に成功した宗詮はこの後、半年をかけて因幡内の久通勢力の掃討を行った。[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])の[[冬]]には因幡一円は但馬の勢力下に置かれ、[[守護]]には但馬方の人間が送り込まれた。しかし、南因幡の山間部には依然として[[因幡毛利氏]]、[[矢部氏]]、[[草刈氏]]などの反但馬勢力が根強く残っており、宗詮はこの後もこれらの対応に苦慮していくことになった。
 
== 関連項目 ==