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徳川実記→徳川実紀
慶長3年([[1598年]])8月、秀吉が死去すると、遺物左文字の刀を受領した{{sfn|高柳|松平|1981|p=242}}。
 
慶長5年([[1600年]])、家康の[[会津征伐]]には子の勝成が従軍し、三河に留まる。7月19日、三河池鯉鮒<ref name="c"/>において浜松から越前府中の新領に帰る[[堀尾吉晴]]を歓待して酒宴を催した際、同席した[[加賀井重望]](秀望)と口論になった殺害された{{sfn|堀田|1923|p=825}}{{sfn|谷口|1995|p=413}}<ref>『徳川実』によると大谷吉継が加賀井重望に暗殺を命じたとする。ただし、あまりにも不可解な事件のため、忠重と重望が喧嘩して殺害されたのではないか、という出典不明な俗説を信じる人も多い。</ref>。享年60。兄・信元と同じ三河[[楞厳寺 (刈谷市)|楞厳寺]]の水野家の霊廟に葬られた{{sfn|堀田|1923|p=825}}が、子の勝成が追善供養のために建立した[[広島県]][[福山市]]の[[賢忠寺]]にも墓がある。{{-}}
 
== 登場する作品 ==
5,765

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