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== 日本における臨済宗 ==
宗門では、ゴータマ・シッダールタの教え([[悟り]])を直接に受け継いだ[[十大弟子|マハーカーシャパ]](迦葉)から28代目の[[ボーディダルマ]](菩提達磨)を得て[[インド]]から[[中国]]に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、[[南宋|宋]]時代の中国に渡り学んだ'''[[栄西]]'''(1141年 - 1215年)らによって、[[鎌倉時代]]以降に日本に伝えられ、様々な流派が成立した。栄西が伝えたのは黄竜派の教えだが、[[俊芿]](1166年 - 1227年)が伝えた楊岐派の教えは、禅宗24流のうち20流をまでを占めるまでになった。<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97-150337 臨済宗] -コトバンク</ref>なお、[[江戸時代]]に伝わった[[黄檗宗]]も元来、中国臨済宗の一派である。師から弟子への[[悟り]]の伝達(法嗣、はっす)を重んじる。[[釈迦]]を本師釈迦如来大和尚と、[[ボーディダルマ]]を初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。同じ禅宗の[[曹洞宗]]が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、[[鎌倉幕府]]、[[室町幕府]]という時の武家政権との結び付きが強かったのも特徴の1つで、[[京都五山]]、[[鎌倉五山]]のどちらも全て臨済宗の寺院で占められているほか、[[室町文化]]の形成にも多大な影響を与えた。しかしその後、[[足利氏]]の権勢とともに臨済宗も衰退していった。<ref>村上専精 『日本佛教史綱(下巻)』 創元社、1939年、245頁</ref>江戸時代になって、[[白隠]]禅師(1686年 - 1769年)によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅とも言われている。そして、白隠は「中興の祖」として知られる。この時代、臨済宗で勢力を拡大したのは妙心寺派と大徳寺派であったが、<ref>圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、360項</ref>白隠も妙心寺派の出である。妙心寺派はこのほか、[[愚堂東寔]]や[[一糸文守]]を輩出している。一方の大徳寺派では、[[沢庵宗彭]]が有名である。また、江戸時代は各宗派において[[学林]]が栄えた。臨済宗では妙心寺や大徳寺、京都五山、それに鎌倉五山などに学寮を設けられ、宗学の伝授と住職資格の付与を担った。<ref>圭室諦成『日本佛教史概説』理想社出版部、1940年、346項</ref>
 
=== 主な法嗣の系統 ===