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「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の[[賠償金]]支払債務に目をつけた。まず[[フランス第三共和政|フランス共和国]]、[[ドイツ帝国]]、[[ロシア帝国]]はいわゆる「[[三国干渉]]」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、[[1896年]]から[[1899年]]にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。[[満州|満洲]]から[[モンゴル]]をロシア、[[長江]]流域を[[イギリス]]、[[山東省]]をドイツ、[[広東省]]・[[広西省]]をフランスが{{仮リンク|勢力圏|en|Sphere of influence}}とした。同じく、イギリスは[[九龍半島]]([[香港総督]]管轄)と[[威海衛]]、フランスが[[広州湾]]、ドイツが[[青島市|青島]]([[膠州湾租借地]])、ロシアが[[旅順]]と[[大連市|大連(ダーリニー)]]([[関東州]]、{{仮リンク|極東総督|ru|Наместничество Дальнего Востока}}管轄)を[[租借地]]として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。しかもロシアは賄賂をもちい[[露清密約]]で[[東清鉄道]][[鉄道附属地|附属地]]を手に入れた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[南北戦争]]による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、[[門戸開放宣言]]を発しつつ[[国際共同租界]]設置に参加した。
 
[[李鴻章]]と[[左宗棠]]の[[海防・塞防論争]]を契機として、技術面だけの[[洋務運動]]に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、[[康有為]]・[[梁啓超]]ら若い知識人が日本の[[明治維新]]に倣って、清も[[立憲君主制]]をとり国政の本格的な近代化を目指す[[変法自強運動]]を唱え始めた。彼ら変法派は[[光緒帝]]と結んで[[1898年]]一時的に政権を奪取した([[戊戌の変法]])が、[[西太后]]率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された([[戊戌の政変]])。その後、西太后は[[保慶帝|愛新覚羅溥儁]](保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が[[義和団の乱|義和団]]の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。
 
[[1899年]]、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。翌[[1900年]]西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、[[八カ国連合軍]]に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める[[北京議定書]]を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。