「国分重胤」の版間の差分

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'''国分 重胤'''(こくぶん しげたね、[[弘長]]2年([[1262年]])? - [[元徳]]2年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1331年]][[1月12日]]))は、日本の[[鎌倉時代]][[陸奥国]][[宮城郡]]にいたとされる武士である。[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]第5世の当主とされるが、実在しない可能性がある。
 
== 概要 ==
[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末まで宮城郡南部を領した一族である。後世の系図によれば、鎌倉時代には国分荘を領したとされる。重胤の名は、江戸時代に[[佐久間義和]]が編纂した「平姓国分氏系図」にのみ現れる<ref>1950年刊『仙台市史』第3巻別編1の232-246頁に主要部の引用がある。以下、佐久間編の系図については同書による。</ref>。父は[[国分胤光]]、母は[[留守家広]]の女。弟に信光、胤次がおり、妹が2人いてそれぞれ[[葛西清房]]と郷六忠政の妻になった。[[相馬定胤]]の女を妻とし、息子に[[国分盛胤]]、政継、重朝、重行の4人がおり、娘は4人いてそれぞれ二階堂顕親、長江景資、蜂屋正衡、武石高広の妻になった。