「遣唐使」の版間の差分

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|align="center"|(18)||延暦24年<br />(805年)||元和元年<br />(806年)||[[高階遠成]](遣唐使判官)|||||||藤原葛野麻呂らの帰国直後に急遽任命、出発。高階遠成は在唐中に唐朝より中大夫・試太子允の官を与えられる。806年10月に遣唐留学生の橘逸勢や留学僧の空海らを伴って帰国。帰国後の12月、高階遠成は突然遣唐使に任命されて休む暇もなく出発した心中を哀れまれて、特別に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられた。留学生として20年の留学予定が僅か2年で「留学の滞在費がなくなったこと」を理由に高階遠成を通じて上奏して唐朝の許可を得て帰国した空海に対して、朝廷は対応に困ったのか大同4年(809年)まで入京を許可しなかった<ref>[[渡辺照宏]]、[[宮坂宥勝]]『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.87-92</ref>。
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|align="center"|19||承和5年<br />([[838年]])||承和6年<br />([[839年]])||[[藤原常嗣]](大使)<br />/[[小野篁]](副使)||[[円仁]](請益僧)・[[菅原善主]](判官・第三船)・[[藤原貞敏]](准判官)・[[長岑高名]](准判官・第一船)・[[良岑長松]](准判官)・[[菅原梶成]](知乗船事・医師)・[[伴有仁]](知乗船事)・[[円仁]](請益僧)・[[円載]](留学僧)・[[円行]](請益僧)・[[常暁]](請益僧)・[[真済]](請益僧)・[[真然]](留学僧)||align="center"|4||[[天台山]]留学を切望していた僧の[[円仁]]の渡航のために、大使の常嗣は便宜を図った<ref>『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条</ref>。承和3年・承和4年とも渡航失敗。承和3年5月に一旦出航するも、嵐に遭い摂津国輪田泊から進めず<ref>『続日本後紀』承和3年5月18日条</ref>、九州に至るまでに時間を要した。承和3年(836年)7月に太宰府を発って出航するも、全船が同月から翌月までに肥前など九州各地に漂着した。真済・真然の子弟の船も遭難し、筏に乗り換え23日間漂流。筏の30余人は皆が餓死したが真済・真然だけは生き残り島に漂着。島民に助けられた。翌承和4年に仕切り直しとなるがこれも失敗。さらに翌承和5年に出航する。ここまでの過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航を拒否して[[隠岐]]へ流罪となった。もはや遣唐使の意義が薄れ再検討すべきだとの批判があったと指摘されているが、さらに[[伴有仁]]ら4名も乗船を拒否して逃亡し処罰を受けている{{Sfn|佐伯有清|2007|pp=14-16、32-34、79-80|ps=、出典は旧版の講談社現代新書、1978年}}<ref>『続日本後紀』承和6年3月丁酉条</ref>。これにより副使不在となったが、長岑高名や藤原貞敏ら判官が現地代行。この往路の渡航は志賀島から揚州まで8日間で到達した。一隻は往路で遭難。円仁の乗船は到達するも揚州の海岸に乗り上げて大破全壊している。この様子は円仁の『[[入唐求法巡礼行記]]』に記されている。揚州到達後、唐の政情不安により34名のみ長安に赴く。翌承和6年(839年)常嗣は長安で[[文宗 (唐)|文宗]]に拝謁したのち、帰途、新羅船9隻を雇い8月に肥前に帰国。9月には帰国した使節それぞれに叙爵が行われている。この帰国時の渡航ルートを巡って、常嗣と判官の[[長岑高名]]が対立するが、全責任者の常嗣はしかし高名の主張に敗れた<ref>『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年4月1-4日条</ref>。帰途、第2船は南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って承和7年6月(4月?)に大隅国に帰着した。また、承和3年(836年)7月、途上の便宜を新羅に要請するために[[紀三津]]が遣新羅使として派遣されるが、三津と新羅側の双方の態度が新羅との間に外交問題を引き起こしたが、積年の格下蕃国扱いに対する新羅の反発離脱の意図もあると指摘されている{{Sfn|佐伯有清|2007|pp=63-66|ps=、出典は旧版の講談社現代新書、1978年}}。[[琵琶]]の名手として知られた藤原貞敏は唐で琵琶の名人の門下となり、さらに師の娘を娶った。貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」を持ち帰ったと同時にこの妻も一緒に帰国し、日本に[[筝]]を伝えた<ref>『[[教訓抄]]』</ref>。本来短期留学の予定の円仁は一行から離脱する形で以降は不法滞在し、9年後に「[[会昌の廃仏]]」の影響を利用して帰国した。円載は以降40年近く唐に滞在し、862年には入唐した[[高岳親王|真如法親王(高岳親王)]]の世話をしている。なお円載は後に帰国の途上にて遭難死
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|align="center"|(20)||寛平6年<br />([[894年]])||align="center"| - ||[[菅原道真]](大使)・[[紀長谷雄]](副使)|| || ||唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により停止。ただし大使の任は解かれず。907年に唐が滅亡し、遣唐使は廃止となる。{{要出典範囲|この頃度々、九州北部にて新羅人が大規模な襲撃・略奪を繰り返しており、これらの件に唐が関与しているかどうかを調査する目的があったともされる。|date=2018年5月}}