「上町台地」の版間の差分

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'''上町台地'''(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_UE_pdf/UE_03_uemachi.pdf |title=上町台地とその周辺低地における地形と古地理変遷の概要 |format=PDF |publisher=大阪文化財研究所 |accessdate=2015-12-11}}</ref>。
 
北部は[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[難波宮]]跡付近・[[大坂城|大阪城]]付近・[[天満橋]]の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、[[天王寺区]][[上本町]]の[[大阪上本町駅]]付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって[[阿倍野区]]周辺を経て、南部の[[住吉区]]・[[住吉大社]]付近に至り、その辺りでほぼ平地になり[[清水丘]]を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。[[大阪]](大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。
 
== 上町台地の範囲と成り立ち ==
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上町台地は[[洪積台地]]であり、大阪層群の上に成立する中位段丘層である上町類層を基礎としている。北部の天満層とは地質学的に不整合であり、上町台地の北端は大阪城と考えられる。また、台地の全容は、古地図や戦後実施された大学や行政、また、高層建築物の建設際の地盤調査の際に行われる[[ボーリング]]調査等の地層断層検査などの結果から[[5世紀]]頃において既に[[砂嘴]]として形成されていたと予想される高地部分を上町台地と推定している。
 
上町台地は[[縄文時代|縄文期]]には東西を[[河内湾]]と[[瀬戸内海]]に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、[[弥生時代|弥生期]]から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は[[淀川]]・[[大和川]]水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が[[河内湖]]、湿地帯を経て[[沖積平野]]となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するにいたった。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く[[大阪湾]]平均水面より低い[[ゼロメートル地帯]]が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い[[大坂城|[大阪城]]天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の[[天王寺]]交差点付近で16メートル、[[帝塚山]]付近で14メートルの標高を保つが、南部の[[万代池]]南方から急速に標高を失い[[住吉大社]]付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の[[住吉区]][[清水丘]]では標高は2 - 3メートルとなっている。
 
なお、台地の範囲を四天王寺付近までとする見解もあるが、台地表層の開発利用状況から見ての明治期以前に拓けていたか否かを分岐とする考え方から来ているものと考えられる。そもそも、江戸時代までは[[河内国|河内]](かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が[[柏原市|柏原]]から北へ蛇行し現在の[[東大阪市]]から[[大東市]]あたりに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]天満橋あたりであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、[[天王寺区]]、[[阿倍野区]]、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
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== 上町台地開発と大阪の歴史 ==
[[ファイル:Arial View of Shitennō-ji.jpg|thumb|四天王寺伽藍図]]
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地の先端に[[生國魂神社]]が存在した場所であり、西日本各地や中国・朝鮮との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。昭和62年([[1987年]])夏、上町台地の北端で[[古墳時代]]の[[5世紀]]後半と推定される[[掘立柱建物|高床式倉庫群]]が発掘された。発掘された倉庫群は16棟で、東西方向に2列に並んでいる。倉庫のどれも同じ構造で、平面規模も一辺10m×9m前後と同じで、真北向きに配置されており、建物の間隔も同じである。16棟の合計床面積が約1470平方メートルもあり、租税としての米を[[籾]]で入れるのか稲束で入れるのかの違いがあるが相当大きな収容量であったと推測される。5世紀に突然、上町台地の北端に大規模倉庫群が立てられたのか疑問が残る<ref>この倉庫群の項は、南英夫「五世紀の大倉庫群」財団法人大阪市文化財協会編『大阪遺跡--出土品・遺構は語るなにわ発掘物語』創元社 [[平成]]20年([[2008年]]) 155頁</ref>。この遺構は「法円坂遺跡」として国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡」の「附」(つけたり)としての指定)<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000168/168280/kousouan06.pdf 史跡難波宮跡整備基本構想(案)]、p.18(大阪市サイト)</ref>。
 
古墳時代、[[仁徳天皇]]が難波高津宮に都を定め、飛鳥時代に入り、『[[日本書紀]]』では[[推古天皇]]元年([[593年]])に[[聖徳太子]]が[[四天王寺]]を難波の荒陵(あらはか)に建立するとある。以後、四天王寺の西大門から[[難波津]]に沈む夕日を望む[[西方浄土]]信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ[[浄土信仰]]の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった[[渡辺津]](今の[[天満橋]]周辺)で船を下り、そこが[[熊野街道]]の基点であった。四天王寺から熊野街道、[[庚申街道]]などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、[[嵯峨源氏]]の源綱([[渡辺綱]])を祖とする[[渡辺氏]]をはじめとする[[武士]]団の生まれた場所でもあり、彼らの[[水軍]]の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。
 
ちなみに[[大阪|大坂]]とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。
 
[[大化]]元年([[645年]])の[[大化の改新]]の時には、[[首都]]の[[難波長柄豊碕宮]](なにわの・ながらの・とよさきのみや)が上町台地北端に造営され、以降、日本という国号の使用が始まったとされる。その後も首都や副都としての[[難波京]]が置かれた。後年、ほぼ同じ場所である上町台地北端に、[[蓮如]]により[[石山本願寺]]が開かれ、全国の[[浄土真宗]]の総本山となる。その後、石山本願寺は[[織田信長]]による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。信長はこの地に壮大な[[城]]を築き、[[天下統一]]の拠点にしようと計画していたが、[[本能寺の変]]により信長は死した。そして[[豊臣秀吉]]が[[大坂城]]を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれた大坂城にあって、南はなだらかな上町台地に開かれており多数の軍勢に圧迫される可能性のある城郭防衛上の弱点となっており、秀吉は後年、[[総構え]]としてこの上町台地に堀を掘削する工事を行っている。また、徳川家康による大坂城攻め([[大坂の陣|大坂冬の陣]])の際、豊臣方の武将・[[真田信繁]](幸村)が総構えから大きく突出した丸馬出「[[真田丸]]」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な出血を強いた。
 
上町台地は宗教上・軍事上・交易上重要な場所で、大阪の基礎となる場所であったといえる。