「呉権」の版間の差分

リンク修正
(リンク修正)
|呼称=王
|画像=[[ファイル:Tượng Ngô Quyền.jpg|200px]]
|説明=呉権像(唐林[[ドンラム]]、カムラムの呉権廟)
|王朝=呉朝
|在位期間=[[939年]] - [[944年]]
|都城=[[古螺]]
|諱=呉権
|字=
|父=[[呉旻]]
|母=
|后妃=[[廷芸]]の娘国母
|陵墓=
|元号=
|注釈=
}}
{{Commonscat|Ngô Quyền|呉権}}
{{wikisourcelangWikisourcelang|zh|大越史記全書/外紀卷之五|大越史記全書/外紀巻之五}}
'''呉 権'''(ご けん、ゴ・クエン、{{lang-viVie|v=Ngô Quyền|hn=吳權}})は、[[ベトナム]][[呉朝]]の建国者。'''前呉王'''({{lang-viVie|v=Tiền Ngô Vương|hn=前吳王}})と称された。
 
== 生涯 ==
[[ドンラム|唐林]](現在の[[ハノイ|ハノイ市]][[ソンタイ]])の州牧だった[[呉旻]]の子として生まれる。『[[大越史記全書]]』によると、生まれたときに異様な光に包まれていて、背中には大きなあざが三つあったとされる。将来大物になるということで、名を「権」と付けられた。力は一人で[[鼎]]を持ち上げることができるほどだったといわれている
 
[[楊廷芸]]の[[南漢]]に抗する戦争で勇敢に戦い、信頼を得てその娘を娶った。南漢軍を撃退した後に楊廷芸より[[刺史]]の位を授かり、[[愛州]](現在の[[タインホア省]])を治めた。楊廷芸が[[矯公羨]]に殺されると、[[大有]]10年([[937年]])[[12月 (旧暦)|12月]]に愛州で挙兵して矯公羨を打ち破った。矯公羨に救援を求められた南漢皇帝の[[劉ゲン|劉{{Lang|ko|龑}}]]は万王[[{{仮リンク|劉弘操]]|zh|刘弘操}}{{仮リンク|静海[[節度使]]|zh|静海军节度使}}に任じて、兵を発した。劉洪操は水軍を率いて安南に侵攻したが、この時既に呉権は矯公羨を殺していた。南漢軍の侵攻を聞いた呉権は[[白藤江の戦い (938年)|白藤江で迎撃]]し、これを大いに破った。
 
大有10年([[939年]]に王位に上り、[[古螺]]の地を選んで都とした。北方王朝の千年にも及ぶ統治に終止符を打ったのである。
 
呉権は北方王朝の[[藩鎮|節度使]]の廃止を決定し、中央安南に新しい朝廷を樹立した。王が朝廷の先頭に立ち、政治・外交・軍事の全てを決定することにしたのである。文武の官僚を置き、朝廷内の儀礼と官吏の服装の色を階級に応じて規定した。
 
また功績のある将軍を選んで、重要な各州を治めさせた。[[{{仮リンク|丁公著]]|vi|Đinh Công Trứ}}は[[演州|驩州]]、[[矯公罕]]は{{仮リンク|峰州|zh|峰州}}(現在の[[フート省]])の刺史となった。[[乾和]]2年([[944年]]、古螺で世を去った。
 
== 人物 ==
長身のがっしりとした体格で、眼光が鋭く、歩く様子はまるで虎のようであり、力は一人で[[鼎]]を持ち上げることができるほどだったと言われている。
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[小倉紀蔵#家族|小倉貞男]]|title=物語 ヴェトナムの歴史|series=[[中公新書]]|date=1997年}}
* {{Cite book|和書|author=ファン・ゴク・リエン監修|title=ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《|series=世界の教科書シリーズ21|publisher=明石書店|date=2008年}}
 
{{先代次代|[[呉朝]]の初代[[ベトナム帝王一覧|王]]|939年 - 944年|-|[[楊三哥|平王]]}}
 
{{先代次代|[[呉朝]]の初代[[ベトナム帝王一覧|王]]|[[939年]] - [[944年]]|-|[[楊三哥|平王]]}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こ けん}}
[[Category:呉朝の君主|けん]]