「柳原白蓮」の版間の差分

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[[1919年]](大正8年)12月、[[戯曲]]『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌『[[解放 (雑誌)|解放]]』に発表する。これが評判となって本にすることになり、打ち合わせのために[[1920年]](大正9年)[[1月31日]]、『解放』の主筆で編集を行っていた[[宮崎龍介]]が別府の別荘を訪れる。龍介は7歳年下の27歳、[[孫文]]を支援した[[宮崎滔天]]の長男で、[[東京大学|東京帝国大学]]法科の3年に在籍しながら[[新人会]]を結成して労働運動に打ち込んでいた。新人会の後ろ楯となったのが[[吉野作造]]ら学者による[[黎明会]]であり、『解放』はその機関誌であった。
 
両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、燁子がそれまで出会ったことのない新鮮な思想の持ち主であった。燁子は初対面の龍介に「自分の生活はこうしてものを書くだけで、他には何の楽しみもない」という境遇を語っている。別府に2晩宿泊し、打ち合わせを終えて[[鹿児島日豊本線]]に乗る龍介を、燁子は[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]まで見送った。その後、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まる。3月に『指鬘外道』を刊行、[[邦枝完二]]の演出で6月に[[東京府|東京]][[市村座]]で上演されることになり、燁子は原作者として芝居の本読み会や舞台稽古の見学のため、何度か義妹の初枝を伴って上京、その間に龍介と2人の逢瀬を持つようになる。龍介は、燁子が気取ったところがなく、誰に対しても率直に意見を述べ、自分の中に一つのしっかりしたものを持つ、当時の女性としては珍しい個性に惹きつけられたという。
 
=== 出奔決意 ===