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== 歴史 ==
この地域は18世紀ごろまでは[[クメール]]人の土地であった。[[明|明王朝]]の崩壊により亡命してきた楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、[[:vi:Dương Ngạn Địch|{{lang|vi|Dương Ngạn Địch}}]])、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、[[:vi:Trần Thượng Xuyên|{{lang|vi|Trần Thượng Xuyên}}]])などの[[ホア族|華人]]と、それを利用したベトナムの主要民族である[[キン人]]の[[南進]]により、1700年ごろまでにジャーディン(現在の[[ホーチミン市]])、[[ミトー]]、[[ビエンホア]]などの都市部が[[広南国]]の領域に加わった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=小倉貞夫 |authorlink= |coauthors= |year= |title=物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム |publisher=中公新書 |page=198 |id= |isbn=4-12-101372-7 |quote= |comment=他に黄進高の名もあるが、これは黄進(Hoàng Tiến)の誤りと思われるので記載せず}}</ref>。また、キエンザン省およびカマウ省周辺には、[[鄚玖]](マック・クゥ、{{lang|vi|Mạc Cửu}})とその跡継ぎの鄚天賜(マク・ティエン・トゥー、[[:vi:Mạc Thiên Tứ|{{lang|vi|Mạc Thiên Tứ}}]])による華人の半独立国なども興った。このため、今日でもクメール人や華人の人口が多い。
 
その後カンボジアをめぐるシャムとの戦争や、[[西山朝]]と[[広南阮氏]]復興勢力との戦いなどを経て、次第に全域がキン人の支配する領域となっていった。19世紀初頭には[[阮朝]]がほぼ現在の国境線に近い領域を版図とした。