「札幌農学校」の版間の差分

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[[日露戦争]]が終結した[[1906年]](明治39年)6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が[[文部省]]に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を[[宮城県]][[仙台市]]に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった<ref>[[東北大学金属材料研究所]](編)(2016)「[[片平丁|片平]]の散歩道 金研百年の歩みとともに」[[河北新報]]出版センター</ref>。
 
[[1907年]](明治40年)6)9221の[[勅令]]によって、'''東北帝国大学'''を設置し札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが公布された。札幌農学校は同年9月1日付で'''東北帝国大学農科大学'''に改称し、9月11日に農科大学開校式を挙行<ref>『官報』第7269号、明治40年9月19日。</ref>した。1907年明治40年[[勅令]]236号当時の帝国大学およびその分科大学の立地は以下の通りである
 
東北帝国大学は札幌と仙台の分科大学をもって運営される予定であったが、1907年当時の仙台では本部を含めた建物すら建造されていない状態であった。このため、仙台の大学本部並びに理科大学が開設されるまでの間、札幌の農科大学のみで運営することを前提とした「[[帝国大学官制|東北帝国大学農科大学官制]]」を施行することとし、農科大学長の佐藤昌介が東北帝国大学の総長としての職務も代行することとなった。
 
1907年(明治40年)当時の帝国大学およびその分科大学の立地は以下の通りである。
*[[東京大学|東京帝国大学]](本部:[[東京市]])
**東京市所在:法・医・工・文・理・農
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**京都市所在:理工・法・医・文(医の名称は「京都医科大学」)
**[[福岡市]]所在:医(医の名称は「福岡医科大学」)
*東北帝国大学(本部予定地:仙台市)※実際の本部設置は1911年以後。
**仙台市所在:なし
**札幌区所在:農
 
1907年(明治40年)勅令第236号第1条では「仙台ニ帝国大学ヲ置キ東北帝国大学ト称ス」と定められたが、当時の仙台では本部を含めた建物すら建造されていない状態であった。このため、設立当初は「[[帝国大学官制|東北帝国大学農科大学官制]]」により、農科大学長の佐藤昌介が総長職務を代行していた。実際に仙台で開学したのは[[1911年]](明治44年)のことである。ただし、東北帝国大学としての開学式はすべての学年の学生が揃った [[1913年]][[9月22日]]に挙行された。
 
このように実質的には札幌農学校の帝国大学昇格としてスタートしたにも関わらず、大学全体として東北帝国大学の名称が使用された背景には、前述した1906年の折衷案を元に勅令を公布した経緯によるものとされる。
 
なお、北海道の教育環境を鑑みて農科大学附属となる[[高等農林学校]]程度の[[大学予科]]も設置された(帝大の予科は、後に設置された[[京城帝国大学]]予科と[[台北帝国大学]]予科の3校のみ)。1907年(明治40年)の年末の札幌区の人口は6万6193人、翌[[1908年]](明治41年)の北海道の人口は132万2400人。またこのときすでに存在していた林学科も農科大学附属とされるが、[[1910年]](明治43年)には講座制が適用され、他学科と同等に大学レベルの学科になる。これは東京帝国大学に続き2番目の旧制大学林学科であった。
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1908年(明治41年)、[[有島武郎]]が英語講師として同農科大学に赴任した。
 
東北帝国大学農科大学の開校式は、1907年(明治40年)9月11日に挙行<ref>『官報』第7269号、明治40年9月19日。</ref>されたが、東北帝国大学としての開学式はすべての学年の学生が揃った [[1913年]][[9月22日]]に挙行された。
===農科大学長===
東北帝国大学農科大学時代は、全期間に渡り佐藤昌介が学長を務めた。