「臼杵鑑速」の版間の差分

 
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])7月、肥後[[菊池義武]]に対して竹迫・宇土・下陣・片志多攻略に参戦した。[[弘治 (日本)|弘治]]年間より兄の後を受けて[[加判衆]]を務め、兄の職であった豊前方分、筑前方分を受け継いだ。また、戸次鑑連([[立花道雪]])や[[吉弘鑑理]]と共に大友氏の「三老」にまで列せられた。
弘治3年([[1557年]])7月の[[秋月文種]]の攻略戦、[[永禄]]3年([[1560年]])8月16日以降、筑前の豪族[[宗像氏貞]]に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻、永禄10年([[1567年]])7月の[[高橋鑑種]]と[[秋月種実]]討伐、永禄11年([[1568年]])4月の[[立花鑑載]]らの謀反鎮圧、[[肥前国]]の[[龍造寺隆信]]、[[筑紫広門]]などの諸国人の討伐や、北九州に侵攻した毛利軍との[[門司城の戦い]]、永禄12年([[1569年]])5月の[[多々良浜の戦い]]など、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた三大将の一人となる。
 
[[永禄]]4年(1561年)8月、大友義鎮は再び[[門司城]]の攻略を命じる。こうして[[吉岡長増]]・臼杵鑑速の二家老と[[田原親宏]]・[[志賀親度]]・[[朽網鑑康]]・[[吉弘鎮信]]・戸次鑑連・[[田北鑑生]]ら六国衆は1万5千余の兵を率いて[[豊後国|豊後]]の[[大友館]]を出陣し、再び門司城を包囲した。10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や[[田原親賢]]らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して[[小早川隆景]]勢に射ち込み大損害を与えたという<ref>『陰徳太平記』・『吉田物語』</ref>。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。