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'''石川 邦光'''(いしかわ くにみつ)は、[[江戸時代]]末期から[[大正時代]]の[[武士]]・[[政治家]]。[[仙台藩]]一門筆頭・角田石川第14代([[陸奥石川氏]]第38代)当主。[[宮城県]][[伊具郡]][[角田市|角田町]]初代町長。
 
== 生涯 ==
[[天保]]15年([[1844年]])8月3日、角田石川第13代当主・[[石川義光]]の四男として生まれる。[[幼名]]は'''貞力'''。三人の兄がいずれも夭逝したため世子となり、[[元治]]元年([[1864年]])に父・義光の隠居にともない家督を相続する。主君の[[伊達慶邦]]より[[偏諱]]を賜い、'''邦光'''と改名する。
 
仙台藩一門筆頭として[[戊辰戦争]]で活躍したが、仙台藩降伏により失領。明治2年([[1869年]])8月に新政府の太政官に建議し、9月13日には[[胆振国]][[室蘭郡]]の支配を許されたので、邦光は家臣・[[泉忠広]]らと共に渡海し、11月24日に室蘭にて[[開拓使]]より引渡しを受け、翌明治3年([[1870年]])4月6日に第一次移民団44戸51人が室蘭に入った。邦光が移住者を率いて渡海し、国許には隠居の義光が残って家中を取りまとめる方針であったが、義光が病に倒れた上、家臣の広西岱介らが10万両を献金すれば旧領への復帰が許されるという詐欺師の甘言に乗せられて(実際に[[盛岡藩]]・[[庄内藩]]は70万両、[[磐城平藩]]は7万両を新政府に納めることで旧領復帰が許されていた)移住費用を騙し取られてしまい、家臣1,300戸の自費移住は絶望的となった。このため家中からも帰農を願い出るものが相次ぎ、やむなく支配地の返上を申し出ることになった。5月27日、邦光は室蘭郡の支配を罷免され、所轄地は[[伊達邦成]]と[[片倉邦憲]]に分割された。6月13日、邦光は一か月の謹慎を命じられた。
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*[http://www.town.nanporo.hokkaido.jp/cyousei/kyouiku/kaitakusi.jsp 南幌開拓史(南幌町公式HP)]
 
{{先代次代|角田石川([[陸奥石川氏]])|第14代(第38代):1864 - 1868|[[石川義光]]|石川小膳}}
 
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[[Category:陸奥石川氏|くにみつ]]
[[Category:幕末仙台藩の人物]]
[[Category:宮城県の市町村長]]
[[Category:陸奥角田石川|くにみつ]]
[[Category:幕末仙台藩の人物]]
[[Category:西南戦争の人物]]
[[Category:戦前北海道史の人物]]
[[Category:角田市の歴史]]