「英祖王統」の版間の差分

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中期[[北山王国|山北]]の初代国王[[帕尼芝]]は英祖の次男の湧川王子のひ孫、[[南山王国|山南]]の初代国王[[承察度]]は英祖の五男の大里按司の孫であると言われ、後の[[三山時代]]の基礎となった王統とも言われる。
 
[[1291年]]に[[文永の役]]([[1274年]])と[[弘安の役]]([[1281年]])「日本への二度の[[元寇]]で日本上陸に失敗した[[元 (王朝)|元軍]]は[[1291年]]に[[沖縄]]への上陸を目指し試み沖縄へと攻め入ってきた際には初代王でが英祖が撃退した」と言われる事があるが、[[英祖1291年]]に[[元 (琉球国)|英祖元軍]]によってが襲退ていた「瑠求」は[[台湾]]のことであり、この逸話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想であとされる<ref>學士會会報 No. 893, 2012, pp. 70 参照</ref>
== 脚注 ==
<references/>
 
{{琉球国王}}