「パーシー・フェイス」の版間の差分

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8人兄弟の長男として生まれる。幼少期より音楽に親しみ、[[ヴァイオリン]]や[[ピアノ]]を演奏し[[クラシック音楽]]の[[ピアニスト]]を目指していたが、18歳の時、[[マッチ]]から妹の洋服に燃え移った火を手で消火したことにより両手に大火傷を負い、ピアニストになることを断念した。その後作曲家へ転向し、編曲手法も学び頭角を現す。当初はトロントで[[ホテル]][[オーケストラ]]などを指揮し、[[1933年]]に専属の編曲兼指揮者として[[カナダ放送協会]]と契約。担当番組「ミュージック・バイ・フェイス」は好評で7年間続いた。[[1940年]]にアメリカへ招聘されて「カーネーション・コンテンティッド・アワー」指揮者の急死による代役を3週間務め、好評により契約を延長してアメリカに留まり約2年後にアメリカの[[市民権]]を得る。
 
[[1944年]]から録音作品の制作を開始し、後年[[デッカ]]の[[A&R]]として活動するが、[[1950年]]に{{仮リンク|ミッチ・ミラー|en|Mitch Miller}}に請われてアメリカの[[コロムビアレコード]]へ移籍して東部担当[[ミュージカル]][[ディレクター]]として活動する。自身も[[1975年]]までムード・ミュージック・[[オーケストラ]]として活動し、「{{仮リンク|デリカード|en|Delicado}}」、「{{仮リンク|ムーラン・ルージュの歌|en|The Song from the MouliMoulin Rouge}}」、「[[夏の日の恋]]」の3曲が[[ヒットチャート#北アメリカ|全米ヒットチャート]]で1位になる。「夏の日の恋」は[[マントヴァーニ]]らのムード・ミュージックと流行中の[[ロックンロール]]を融合させ、[[1960年]]に全米ヒットチャートで9週連続1位になり同年の[[グラミー賞]]を受賞している。ミュージカルディレクターとして[[トニー・ベネット]]、[[ドリス・デイ]]、[[ローズマリー・クルーニー]]、[[ジョニー・マティス]]等の編曲やバック・オーケストラ指揮を務めている。
 
日本へは、1960年に単身で初来日して日本のオーケストラを指揮演奏し、自らのオーケストラによる来日公演は[[1966年]]、[[1971年]]、[[1973年]]、[[1974年]]、1975年の5回で、1966年公演は[[日本放送協会|NHK]]が[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]と[[NHK-FM放送|FMラジオ]]で放送し、1974年公演はライブ録音が[[レコード#LP盤|LPレコード]]で[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]が発売している。
 
[[1928年]]に妻メアリー<ref>[[1909年]]11月24日生まれ、[[1997年]]11月27日[[ロスアンゼルス]]で死去。</ref>と結婚してマリリンとピーター二人の子を儲け、[[1976年]]2月9日に[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|[[エンシ|en|Encino}} (ロサンゼルス)]]で[[がん]]により死去し、同州[[カルバーシティ]]{{仮リンク|ヒルサイド記念公園墓地|en|Hillside Memorial Park Cemetery}}に埋葬されている。
 
日本では現在ソニー・ミュージックエンタテインメントと[[ビクターエンタテインメント]]から“パーシー・フェイス”名義の[[CD]]が発売されているが、ビクター発売分はパーシー死後に別指揮者で新規録音された内容で、アーティスト名英文表記“Percy Faith Orchestra”の前に“The”が付加されている。