「有藤通世」の版間の差分

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{{by|1977年}}は主に三番打者として活躍し、9月以降は主に一番打者を務めた。同年は自己最高の[[打率]].329で[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]に輝く。一方で同年のキャンプで左手首の[[腱鞘炎]]を発症し、シーズンでもダイビングキャッチをした際に負傷したり死球で肘を痛めたりするなど満身創痍の状態であり、本塁打は16本に終わり、入団以来続けていた連続20本塁打以上の記録が途切れた。
 
{{by|1980年}}は主に五番打者や六番打者として起用され、打率.309・22本塁打・27盗塁の成績を残す。{{by|1981年}}には通算10度目となる[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を授賞した。同年10月19日に監督の[[山内一弘]]が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが[[野村克也]]、[[土橋正幸]]、[[豊田泰光]]と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーの[[重光武雄]]が「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、最終的には[[山本一義]]が監督に就任した<ref>[https://www.sankei.com/west/news/181010/wst1810100006-n1.html 【虎番疾風録(39)】仰天ロッテ山本監督決定] [[産経新聞]]、2018年10月10日</ref>
 
{{by|1982年}}、リーグ7位の打率.301を記録するが、翌1983年からは衰えが見られるようになった。{{by|1984年}}に[[外野手]]に転向し、[[落合博満]]に三塁を譲る<ref>同年は右翼手、1985年は左翼手が中心。1986年は三塁手に戻る。</ref>。