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|image=[[File:Oliver CromwellUT.jpg|250px]]
|caption=オリバー・クロムウェル。1649年にイングランド議会に代わってアイルランドを再占領するため上陸した。彼はアイルランド東部と南部を落とし1650年に去った。指揮権はヘンリー・アイアトンに移された。
|partof=[[{{仮リンク|アイルランド・カトリック同盟戦争]][[:|en|:Irish Confederate Wars|en]] }}および [[清教徒革命|三王国戦争]]
|date=[[1649年]]8月から - [[1653年]]4月
|place=[[アイルランド島]]
|casus=[[アイルランド・カトリック同盟]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の復権を目指す[[イングランド|イングランド]][[騎士党|]]の同盟 ([[イングランド共和国]]に対する脅威)。また、1641年の反乱に対する懲罰。
|result=イングランド[[円頂党|議会派]]がアイルランドを占領、派の敗北とアイルランドの[[カトリック教会|カトリック]]勢力の鎮圧。
|combatant1=イングランド派およびアイルランド・カトリック同盟連合軍
|combatant2=イングランド議会派[[ニューモデル軍]]および同盟していたアイルランドの[[プロテスタント]]
|commander1=[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](1649年 - 1650年12月)<br />[[ユーリク・バーク (初代クランリカード)|ユーリク・バーク]](1650年12月 - 1653年4月)
|commander2=[[オリバー・クロムウェル]](1649年 - 1650年5月)<br />[[ヘンリー・アイアトン]](1650年5月 - 1651年11月)<br />[[チャールズ・フリートウッド]](1651年11月 - 1653年4月)
|strength1=最高で60,000人以上。ただし常時20,000人ほどいたゲリラ兵含む
|strength2=1649年から53年に約30,000のニューモデル軍。加えて軍事行動以前にアイルランドに拠点を構築もしくは決起した10,000人の軍隊
|casualties1=不明。15,000から20,000人が戦場で、200,000人以上の市民が戦争関連の飢餓や疫病で犠牲に。<br />およそ12,000人が奴隷として輸出された (1660(1660)<ref>Mícheál Ó Siochrú/RTÉ ONE, Cromwell in Ireland Part 2. Broadcast 16/9/2008.</ref>。
|casualties2=8,000人のニューモデル兵、約7,000人の現地結成軍
|}}
<!---該当テンプレートがないため{{Campaignbox Cromwellian conquest of Ireland}}--->
 
'''クロムウェルのアイルランド侵略''' (The(The Cromwellian conquest of Ireland) Ireland)は、[[清教徒革命|]]([[イングランド内戦]]、三王国戦争]]のさなか、[[オリバー・クロムウェル]]によって率いられた[[イギリスの議会|イングランド議会]]軍による[[アイルランド]]再占領のことである。
 
== 名称 ==
「{{仮リンク|アイルランド革命 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド革命}}」([[1641年]])、「クロムウェルのアイルランド侵略」([[1649年]] - [[1653年]])の総称として『{{仮リンク|アイルランド同盟戦争|en|Irish Confederate Wars|label=11年戦争}}』({{lang-en|Eleven Years War}}、[[1641年]]10月 - [[1653年]]4月)とも呼ばれている。
 
== 概要 ==
1649年、クロムウェルは彼の指揮下にある{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}と共にイングランドの[[長期議会]]([[円頂党|議会派]])の代理、アイルランド派遣軍司令官としてアイルランドに上陸した。[[1641年]]の{{仮リンク|アイルランド革命 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド革命}}以来、アイルランドはおおむね[[アイルランド・カトリック同盟]]の統治下にあったが、アイルランド・カトリック同盟は[[イングランド内戦]]において敗北した[[騎士党|王党派]](国王派)と1649年に同盟を結んでいた。

クロムウェルとその軍隊はアイルランドにおいてアイルランド・カトリック同盟と国王派の連合軍を撃破、アイルランドを占領した。これにより[[{{仮リンク|アイルランド同盟戦争]] ([[:|en|:Irish Confederate Wars|Irish Confederate Wars]]) }}は終結した。続いてクロムウェルは[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]教徒 (アイルランド人口の大多数) に対する[[{{仮リンク|刑罰法 (アイルランド)|刑罰法]] ([[:en:|Penal laws|Penal laws]]) label=刑罰法}}を可決させ、彼らから大量の土地を没収した。議会軍によるアイルランド再占領は残忍を極め、そのためクロムウェルは現在でもアイルランドで嫌われている<ref>"Of all these doings in Cromwell's Irish Chapter, each of us may say what he will. Yet to everyone it will at least be intelligible how his name came to be hated in the tenacious heart of Ireland". John Morley, Biography of Oliver Cromwell. Page 298. 1900 and 2001. ISBN 978-1421267074.; "Cromwell is still a hate figure in Ireland today because of the brutal effectiveness of his campaigns in Ireland. Of course, his victories in Ireland made him a hero in Protestant England." [http://www.learningcurve.gov.uk/civilwar/g5/cs2/s4/] British National Archives web site. Accessed March 2007; [http://www.british-civil-wars.co.uk/military/1649-52-cromwell-ireland.htm] From a history site dedicated to the English Civil War. "...&nbsp;making Cromwell's name into one of the most hated in Irish history". Accessed March 2007. Site currently offline. WayBack Machine holds archive here [http://web.archive.org/web/20041211163740/http://www.british-civil-wars.co.uk/military/1649-52-cromwell-ireland.htm]</ref>。

この悪行に対するクロムウェル (彼は最初の1年は直接指揮をとっていた) の責任の範囲は、今日においても激しい議論の対象である。近年になって何人かの歴史家は、クロムウェルによって行われたとされる行為の多くは、当時の戦争のルールでは許容されていたものであったか、もしくは扇動者によって誇張もしくはゆがめられたものであると主張した<ref>たとえば Philip McKeiver, 2007年, ''A New History of Cromwell's Irish Campaign'' ISBN 978-0-9554663-0-4 や Tom Reilly, 1999年, ''Cromwell: An Honourable Enemy'' ISBN 0-86322-250-1</ref>。が、これらの主張は他の歴史家からは疑問を呈されている<ref>[[ヒストリー・アイルランド]] ([[:en:History Ireland|History Ireland]]。アイルランドの歴史に関するマガジン) の"Cromwell: An Honourable Enemy" [http://www.historyireland.com/resources/reviews/review1.html History Ireland]参照。</ref>。議会派によるこれら行為の結果、アイルランド人口の15から25%程度が殺害もしくは亡命したと一般的には見積もられているが<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p112</ref>、50%以上もの人口減少を起こしたと主張する少数派もいる<ref>The History and Social Influence of the Potato, Redcliffe N. Salaman, Edited by JG Hawkes, 9780521316231, Cambridge University Press</ref>。
 
== 背景 ==
[[イングランド内戦]]の勝者であるイングランド議会が1649年にアイルランドへ派兵した理由はいくつかある。
*1649年に[[アイルランド・カトリック同盟]]と[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](処刑された[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の息子)およびイングランド国王派が同盟を結んだこと。このためアイルランドには国王派の部隊が派遣され、カトリック同盟の部隊が[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド]][[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]の指揮下におかれた。この狙いはイングランドに侵攻し君主制を復活することにあり、これは新生[[イングランド共和国]]にとって無視することのできない脅威であった。
*仮にカトリック同盟が国王派と同盟を結ばなかったとしても、イングランド議会派がアイルランドの再占領を行った可能性は十分あり得る。彼らは三王国戦争のさなかにも議会軍をアイルランドに派兵していた (最大のものは[[{{仮リンク|マイケル・ジョーンズ (軍人)|en|Michael Jones (soldier)|label=マイケル・ジョーンズ]] ([[:en:Michael Jones (soldier)|Michael Jones]]) }}率いる1647年のもの)。彼らはアイルランドを、[[イングランド王国]]の一部として正当な統治下にあり、1641年のアイルランド反乱以来一時的に支配から外れている存在として見ていた。
*加えて、議会派議員の多くが、1641年反乱の際に起きたイングランド人プロテスタント移民に対する残虐行為を罰したいと望んでいたこと。
*アイルランドのいくつかの都市 (とく(特に[[ウェックスフォード]] ([[:en:Wexford|Wexford]]) と[[ウォーターフォード]] ([[:en:Waterford|Waterford]]) は1640年代にイングランド船を襲った[[私掠船]]の基地であったこと<ref>O'Siochru, God's Executioner, p.69 &96</ref>。
*議会派は内戦中の1642年以降[[{{仮リンク|探検家法]] ([[:|en:|Adventurers Act|Adventurers Act]]) }}によって1000万ポンドの借款を集めたが、債権者にはアイルランド・カトリック反乱軍から没収した土地でそれを補償するとしていた。債権者に補償を行うには、アイルランドを侵略してその土地を没収する必要があった。
*クロムウェルやその軍隊の多くは[[ピューリタン]]で、彼らからすればローマ・カトリックは[[異端]]であった。そのため彼らからすればこの侵略は[[十字軍]]であった。
 
== 経過 ==
== ラスマインズの戦いとクロムウェルのアイルランド上陸 ==
{{main|=== ラスマインズの戦い|[[:en:Battle ofとクロムウェルのアイルランド上陸 Rathmines]]}}===
{{main|ラスマインズの戦い}}
カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド公指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する[[ラスマインズ]] ([[:en:Rathmines|Rathmines]]) に集結した。しかし国王派が展開中の8月2日、ジョーンズは[[ラスマインズの戦い|奇襲を仕掛け]]これを敗走させた。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張し<ref>McKeiver, A New History of Cromwell's Irish Campaign, page.59</ref>、クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである。」と評した<ref>Antonia Fraser, Cromwell, our Chief of Men (1973), p. 324</ref>。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。[[キンセール]] ([[:en:Kinsale|Kinsale]]) において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で8月15日に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。
カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド侯指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する{{仮リンク|ラスマインズ|en|Rathmines}}に集結した。
 
カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド公指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する[[ラスマインズ]] ([[:en:Rathmines|Rathmines]]) に集結した。しかし国王派が展開中の[[8月2日]]、ジョーンズは[[ラスマインズの戦い|奇襲を仕掛け]]これを敗走させた。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張<ref>McKeiver, A New History of Cromwell's Irish Campaign, page.59</ref>、クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである」と評した<ref>Antonia Fraser, Cromwell, our Chief of Men (1973), p. 324</ref>。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。[[キンセール]] ([[:en:Kinsale|Kinsale]]) において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で8月15日に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>
オーモンド公の軍隊は混乱の中ダブリン周辺から撤退した。ラスマインズでの予想外の敗北で彼らは意気消沈しており、短期間のうちに再度会戦することはできなかった。その結果オーモンド公は、アイルランド東海岸の城塞都市を保持してクロムウェルの進軍を冬まで引き付けることを望み、「ハングリー大佐とシック少佐 <ref>原文ではColonel Hunger and Major Sickness</ref>(つまり飢餓と病)」が彼らを漸減させることを願った<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p.113</ref>。
 
{{仮リンク|キンセール|en|Kinsale}}において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で[[8月15日]]に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。
== ドロヘダ攻城戦 ==
{{main|ドロヘダ攻城戦|[[:en:Siege of Drogheda]]}}
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすために侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的に運ぶためである。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]]率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。クロムウェル軍が都市を攻略した際、クロムウェルの命令によって大部分の駐留兵とカトリック聖職者たちは大虐殺を受けた。多くの市民も略奪の際に犠牲になり、アーサー・アーストンは[[ラウンドヘッド]] ([[:en:Roundhead|Roundhead]]。議会派清教徒のこと) らに、自身の木製義足で殴り殺された<ref>Fraser, pp.336-339. Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p. 98</ref>。駐留軍とドロヘダ市民 (これには町の教会に避難していた1000人を含んでいた) への虐殺はアイルランドにおいて恐怖として受け取られ、今日においてもクロムウェルの過剰な残忍性を示すものとして記憶されている<ref>O Siochru, ''God's Executioner'', pp. 82-91. Faber & Faber (2008)</ref>。しかし近年では、ドロヘダの虐殺は17世紀当時の[[攻城戦]]の標準的なそれと比べて異常に厳しいものではなかったという主張もある (たとえばトム・ライリーの''Cromwell, an Honourable Enemy'', Dingle 1999)。ドロヘダを抜いたのち、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは[[ロバート・ヴェナブルス]] ([[:en:Robert Venables|Robert Venables]]) が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を[[リスナガーヴェイの戦い]] ([[:en:battle of Lisnagarvey|battle of Lisnagarvey]]) で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスターの[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっているもので、マウントラス伯[[チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|チャールズ・クート]] ([[:en:Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath]])が率いていた。
 
オーモンドの軍隊は混乱の中ダブリン周辺から撤退した。ラスマインズでの予想外の敗北で彼らは意気消沈しており、短期間のうちに再度会戦することはできなかった。その結果オーモンドは、アイルランド東海岸の城塞都市を保持してクロムウェルの進軍を冬まで引き付けることを望み、「ハングリー大佐とシック少佐 <ref>原文ではColonel Hunger and Major Sickness</ref>(つまり飢餓と病)」が彼らを漸減させることを願った<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p.113</ref>。
== ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン ==
 
=== ドロヘダ攻城戦 ===
{{main|ドロヘダ攻城戦|[[:en:Siege of Drogheda]]}}
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすために侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的に運ぶためである。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]]率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。
 
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすため軍が[[9月11日]]侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的に運ぶためである。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ攻城戦]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]]率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。クロムウェル軍が都市を攻略した際、クロムウェルの命令によって大部分の駐留兵とカトリック聖職者たちは大虐殺を受けた。多くの市民も略奪の際に犠牲になり、アーサー・アーストンは[[ラウンドヘッド]] ([[:en:Roundhead|Roundhead]]。議会派清教徒のこと) らに、自身の木製義足で殴り殺された<ref>Fraser, pp.336-339. Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p. 98</ref>。駐留軍とドロヘダ市民 (これには町の教会に避難していた1000人を含んでいた) への虐殺はアイルランドにおいて恐怖として受け取られ、今日においてもクロムウェルの過剰な残忍性を示すものとして記憶されている<ref>O Siochru, ''God's Executioner'', pp. 82-91. Faber & Faber (2008)</ref>。しかし近年では、ドロヘダの虐殺は17世紀当時の[[攻城戦]]の標準的なそれと比べて異常に厳しいものではなかったという主張もある (たとえばトム・ライリーの''Cromwell, an Honourable Enemy'', Dingle 1999)。ドロヘダを抜いたのち、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは[[ロバート・ヴェナブルス]] ([[:en:Robert Venables|Robert Venables]]) が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を[[リスナガーヴェイの戦い]] ([[:en:battle of Lisnagarvey|battle of Lisnagarvey]]) で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスターの[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっているもので、マウントラス伯[[チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|チャールズ・クート]] ([[:en:Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath]])が率いていた1999)
 
ドロヘダを抜いた後、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは{{仮リンク|ロバート・ヴェナブルス|en|Robert Venables}}が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を{{仮リンク|リスナガーヴェイの戦い|en|battle of Lisnagarvey}}で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスターの[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっているもので、マウントラス伯{{仮リンク|チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|en|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|label=チャールズ・クート}}が率いていた。
 
=== ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン ===
[[File:kilkenny castle.jpg|250px|thumb|キルケニー城。カトリック同盟の首都であったキルケニーは1650年に陥落した。]]
{{main|ウェックスフォードの略奪|ウォーターフォード包囲戦|[[:en:Sack of Wexford]]|[[:en:Siege of Waterford]]}}
ニューモデル軍はウェックスフォード、ウォーターフォード、そして[[{{仮リンク|ダンカノン]] ([[:|en:Duncannon|Duncannon]]) }}の港を確保するために進軍した。ウェックスフォードはもう1つの[[いまわしい残虐行為({{仮リンク|ウェックスフォードの略奪|いまわしい残虐行為]]en|Sack of Wexford}})があった都市である。降伏交渉が進行している最中に議会軍は町に侵入して略奪をはたらき、2000人の兵士と1500人の市民を殺害、町の多くを焼き払ったのである<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p100</ref>。

ウェックスフォードの略奪におけるクロムウェルの責任については意見が分かれている。彼は町への攻撃を命じておらず、軍が町に突入した時は降伏を協議している時であった。一方でクロムウェルを批判する人は、彼が軍を止める努力をほぼしておらず、また事後にも罰をほとんど与えなかった点を指摘している。
 
おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンドは、クロムウェル軍の恐ろしさによって自軍が麻痺していると考えていた。その後、[[{{仮リンク|ニュー・ロス]] ([[:|en:New Ross|New Ross]])}}[[{{仮リンク|カーロー]] ([[:|en:Carlow|Carlow]]) }}や[[キルケニー]]といった町や都市はクロムウェル軍によって包囲されると、協議に従って降伏している。一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、[[クロンメル]] ([[:en:Clonmel|Clonmel]])や、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこでは兵士に多数の病死者 (おもに[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦の末1650年に降伏した
 
一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、{{仮リンク|クロンメル|en|Clonmel}}、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこで兵士に多数の病死者 (主に[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦({{仮リンク|ウォーターフォード包囲戦|en|Siege of Waterford}})の末翌[[1650年]]に降伏した。
 
=== クロンメルとマンスター侵略 ===
{{main|クロンメル攻城戦|[[:en:Siege of Clonmel]]}}
[[File:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1650年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。のち後に1651年のリムリック包囲戦中に病没。]]
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した。こちらはカトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される。ニューモデル軍は{{仮リンク|クロンメル攻城戦|en|Siege of Clonmel}}において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。
 
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した (カトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される)。ニューモデル軍は[[クロンメル攻城戦]]において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェル軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず、市民の生命と財産の保証さらにはそれ都市を守っていた (武装を解除していない) アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、クロムウェルは尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。
 
オーモンド率いる国王派はいまだに[[マンスター]]地方の大部分を保持していたが、[[コーク (アイルランド)|コーク]]に位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたのはブリテン島から赴任していたプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を[[{{仮リンク|マックルームの戦い]] ([[:|en:battle of Macroom|battle of Macroom]]) }}で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍は[[シャノン川]]を超えて[[コノート]]地方に撤退し、またマンスターにとどまった軍は[[ケリー州]]の要塞に撤退した。
 
=== 国王派連合の崩壊 ===
1650年5月、チャールズ2世は父(チャールズ1世)がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの国民盟約との同盟を選んだためである({{仮リンク|ブレダ条約 (1650年)|en|Treaty of Breda (1650)|label=ブレダ条約}}も参照)。これはオーモンド侯のアイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。
 
1650年5月、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は父親 (チャールズ1世) がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの[[国民盟約]]との同盟を選んだためである ([[ブレダ条約 (1650年)]] ([[:en:Treaty of Breda (1650)|Treaty of Breda (1650)]]) も参照のこと)。これはオーモンド公の、アイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。クロムウェルはアイルランドのプロテスタント系国王派に対して寛大な降伏条約を提示し、結果多くが降伏もしくは議会派側へつくことになった。これにより地図アイルランドにはアイルランドカトリック兵の残党と、徹底抗戦の構えを崩さない少数のイングランド人国王派だけが残ることになった。また、先述の点から、司教や聖職者を含む多くのアイルランド人カトリック教徒には、なぜオーモンドの主君である国王が自分たちとの同盟を拒否したこの期に及んでも、彼がリーダーであることを認めているのかという疑問が出た。1650年5月、クロムウェルは{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}([[1649(1649]] - [[1651年]])においてスコットランドの[[国民盟約]]と戦うためにアイルランドを去り、指揮権は[[ヘンリー・副司令官アイアトン]]に移された。
おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンド公は、クロムウェル軍の恐ろしさによって自軍が麻痺していると考えていた。その後、[[ニュー・ロス]] ([[:en:New Ross|New Ross]])、[[カーロー]] ([[:en:Carlow|Carlow]]) や[[キルケニー市]]といった町や都市はクロムウェル軍によって包囲されると、協議に従って降伏している。一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、[[クロンメル]] ([[:en:Clonmel|Clonmel]])や、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこでは兵士に多数の病死者 (おもに[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦の末1650年に降伏した。
 
=== クロンメルスキャリフフォリスマンアルスター侵略軍の崩壊 ===
{{main|スキャリフフォリスの戦い}}
{{main|クロンメル攻城戦|[[:en:Siege of Clonmel]]}}
残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の軍団で、これは1649年に死亡した{{仮リンク|オーウェン・ロー・オニール|en|Owen Roe O'Neill}}が以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、{{仮リンク|ヒーバー・マクマホン|en|Heber MacMahon}}という経験未熟なカトリック司教が率いていた。
[[File:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1650年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。のち1651年のリムリック包囲戦中に病没。]]
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した (カトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される)。ニューモデル軍は[[クロンメル攻城戦]]において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェルの軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず、市民の生命と財産の保証さらにはそれを守っていた (武装を解除していない) アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、彼は尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。
 
残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の団で、これ1649年6月死亡した[[オーウェ{{仮リ・ロー・オニール]] ([[:en:Owen Roe O'Neill|Owen Roe O'Neill]]) が以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、[[ヒーバー・ママホン]] ([[:en:Heber MacMahon|Heber MacMahon]]) という経験未熟なカトリック司教が率いていた。アルスター軍は1650年6月に[[ドニゴール]] ([[:|en:Donegal|Donegal]]) }}で、おもに英国イングランド移民で構成される議会軍およびチャールズ・クーマウンラス伯が率いる軍と激突した (Scarrifholis({{仮リンク|スキャリフフォリスの戦い)|en|Battle of Scarrifholis}})。アルスター軍は総崩れとなり2,000人もの戦死者を出し<ref>McKeiver,A New History of Cromwell's Irish Campaign p.167</ref>、加えてマクマホンや大部分のアルスター軍の指揮官が戦死もしくはらえられ処刑された。最後の強大な反議会派野戦部隊が敗退したことにより、議会派はアルスターの北部を確保した。クーマウンラス伯の軍は北部におけるカトリック勢力最後の拠点[[{{仮リンク|チャールモント攻城|en|Charlemont}}における包囲({{仮リンク|チャールモントにおける攻城包囲]] ([[:|en:Siege of Charlemont|Siege of Charlemont]]) }})で大きな損害を受けたにもかかわらず、アイルランド南部および西海岸になだれ込むことができた。
オーモンド公率いる国王派はいまだに[[マンスター]]地方の大部分を保持していたが、[[コーク (アイルランド)|コーク]]に位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたのはブリテン島のプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を[[マックルームの戦い]] ([[:en:battle of Macroom|battle of Macroom]]) で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍は[[シャノン川]]を超えて[[コノート]]地方に撤退し、またマンスターにとどまった軍は[[ケリー州]]の要塞に撤退した。
 
=== リムリックとゴールウェイの包囲 ===
== 国王派連合の崩壊 ==
{{main|リムリック包囲戦 (1650年)|ゴールウェイ包囲戦|[[:en:Siege of Limerick (1650-51)]]|[[:en:Siege of Galway]]}}
1650年5月、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は父親 (チャールズ1世) がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの[[国民盟約]]との同盟を選んだためである ([[ブレダ条約 (1650年)]] ([[:en:Treaty of Breda (1650)|Treaty of Breda (1650)]]) も参照のこと)。これはオーモンド公の、アイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。クロムウェルはアイルランドのプロテスタント系国王派に対して寛大な降伏条約を提示し、結果多くが降伏もしくは議会派側へつくことになった。これにより地図にはアイルランドカトリック兵の残党と、徹底抗戦の構えを崩さない少数のイングランド人国王派だけが残ることになった。また、先述の点から、司教や聖職者を含む多くのアイルランド人カトリック教徒には、なぜオーモンド公の主君である国王が自分たちとの同盟を拒否したこの期に及んでも、彼がリーダーであることを認めているのかという疑問が出た。1650年5月、クロムウェルは{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}([[1649年]] - [[1651年]])においてスコットランドの[[国民盟約]]と戦うためにアイルランドを去り、指揮権は[[ヘンリー・アイアトン]]に移された。
[[File:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの[[{{仮リンク|キングジョンズ・カッスル]] ([[:リムリック)|en:|King John's Castle (Limerick)|King John's Castle]]) label=キング・ジョンズ・カッスル}}とソーモンド・ブリッジ。アイアトンは長い包囲の末1651年にリムリックを落とした。]]
10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。アイルランド人貴族であるクランリカード侯{{仮リンク|ユーリク・バーク (初代クランリカード侯)|en|Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde|label=ユーリク・バーク}}率いる軍はこれを食い止めようとしたが{{仮リンク|ミーリック島の戦い|en|battle of Meelick Island}}で奇襲を受け敗北した。
 
オーモンド侯は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド侯は12月に[[フランス王国|フランス]]に逃れ、彼の代わりにクランリカード侯が指揮官になった。だがアイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市リムリックとゴールウェイを守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。
== Scarrifholisとアルスター軍の崩壊 ==
{{main|Battle of Scarrifholis}}
残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の軍団で、これは1649年に死亡した[[オーウェン・ロー・オニール]] ([[:en:Owen Roe O'Neill|Owen Roe O'Neill]]) が以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、[[ヒーバー・マクマホン]] ([[:en:Heber MacMahon|Heber MacMahon]]) という経験未熟なカトリック司教が率いていた。アルスター軍は1650年6月に[[ドニゴール]] ([[:en:Donegal|Donegal]]) で、おもに英国移民で構成される議会派軍およびチャールズ・クート率いる軍と激突した (Scarrifholisの戦い)。アルスター軍は総崩れとなり、2,000人もの戦死者を出し<ref>McKeiver,A New History of Cromwell's Irish Campaign p.167</ref>、加えてマクマホンや大部分のアルスター軍の指揮官が戦死もしくはとらえられ処刑された。最後の強大な反議会派野戦部隊が敗退したことにより、議会派はアルスターの北部を確保した。クートの軍は北部におけるカトリック勢力最後の拠点[[チャールモント攻城戦|チャールモントにおける攻城戦]] ([[:en:Siege of Charlemont|Siege of Charlemont]]) で大きな損害を受けたにもかかわらず、アイルランド南部および西海岸になだれ込むことができた。
 
アイアトンがリムリックを包囲する一方でマウントラス伯はゴールウェイを囲んだが({{仮リンク|リムリック包囲戦 (1650年)|en|Siege of Limerick (1650-51)|label=リムリック包囲戦}}、{{仮リンク|ゴールウェイ包囲戦|en|Siege of Galway}})、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、Knocknaclashyの戦いで迎撃され敗北した([[:en:battle of Knocknaclashy|battle of Knocknaclashy]])。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌[[1652年]]に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した<ref>Micheal O Siochru, God's Executioner, Oliver Cromwell and Conquest of Ireland, p.187</ref>。
== リムリックとゴールウェイの包囲 ==
{{main|リムリック包囲戦 (1650年)|ゴールウェイ包囲戦|[[:en:Siege of Limerick (1650-51)]]|[[:en:Siege of Galway]]}}
[[File:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの[[キングジョンズ・カッスル]] ([[:en:King John's Castle (Limerick)|King John's Castle]]) とソーモンド・ブリッジ。アイアトンは長い包囲の末1651年にリムリックを落とした。]]
1650年10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。クランリカード候[[ユーリク・バーク (初代クランリカード候)|ユーリク・バーク]] ([[:en:Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde|Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde]]) 率いる軍はこれを食い止めようとしたが[[ミーリック島の戦い]]([[:en:battle of Meelick Island|battle of Meelick Island]]) で奇襲を受け敗北した。オーモンド公は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド公は1650年12月にフランスに逃れ、彼の代わりにアイルランド人貴族であるクランリカード候が指揮官になった。アイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市[[リムリック]]と[[ゴールウェイ]]を守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。アイアトンがリムリックを包囲する一方でチャールズ・クートはゴールウェイを囲んだが、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、Knocknaclashyの戦いで迎撃され敗北した ([[:en:battle of Knocknaclashy|battle of Knocknaclashy]])。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌年に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した<ref>Micheal O Siochru, God's Executioner, Oliver Cromwell and Conquest of Ireland, p.187</ref>。
 
=== ゲリラ戦と飢餓と疫病 ===
[[File:Old-Galway.jpg|344px|thumb|Right|強固な陣地を築いた1651年のゴールウェイ。ここは議会派が落とした最後のアイルランド人拠点で、1652年に降伏した。]]
ゴールウェイの陥落はクロムウェルの侵略に対する組織的抵抗の終結を表していたが、議会派に対して小規模のアイルランド人部隊が[[ゲリラ戦]]を開始したため戦いは続いた。
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幾人かは、このような観点で見ていくと、1649年から53年の議会派の軍事行動の苛烈さは、クロムウェルが長い間戦うことができなかったことを考えれば、異常ではないと主張した。繰り返すが、このことについては上述した通り激しい議論がある<ref>John Morrill. "Rewriting Cromwell: A Case of Deafening Silences." Canadian Journal of History. Dec 2003: 19</ref>。
 
それでも、1649年から53年の軍事行動がアイルランドの一般市民に悪名高い記憶として残り続けているのは、アイルランド人に膨大な犠牲者数が出たという責任がある為である。この原因は、ヘンリー・アイアトン、ジョン・ヒューソンやエドマンド・ラドロといった指揮官が、1650年からカトリック住民に対して行った対ゲリラ戦術であり、この時期は国の広い地域でいまだに議会派軍に対する抵抗が続いていた。この戦術は無差別に、収穫物を焼き払い、人々を移動させ、一般市民を殺害した。この方針は国中で飢饉を引き起こし、「1,400,000人のアイルランド総人口のうち死亡した約600,000人の大多数に対して責任がある」とされた<ref>[http://www.economics.ox.ac.uk/index.php/staff/stewart/ Frances Stewart] (2000). ''War and Underdevelopment: Economic and Social Consequences of Conflict v. 1'' (Queen Elizabeth House Series in Development Studies), Oxford University Press. 2000. p. 51</ref>。加えて、戦後のアイルランドにおけるクロムウェル派の植民地すべては、マーク・レーベン (Mark Levene) や[[アラン・アクセルロッド]] ([[:en:Alan Axelrod|Alan Axelrod]]) といった歴史家によって、アイルランド人カトリック教徒を東部の州から排除しようとした[[民族浄化]]であると描写された。
また、歴史作家の[[ティム・パット・クーガン]] ([[:en:Tim Pat Coogan|Tim Pat Coogan]]) は、クロムウェルやその部下の行動を、ジェノサイド (大量虐殺) として描写した<!-- 以下genocideのレフ開始--><ref name="genocide">* ''アルバート・ブレトン'' (Albert Breton。作家、1995年)。''Nationalism and Rationality''. Cambridge University Press 1995の248ページ。「オリヴァー・クロムウェルは、アイルランド人カトリック教徒に、大量虐殺と強制移住という選択肢のどちらかを与えた。("Oliver Cromwell offered Irish Catholics a choice between genocide and forced mass population transfer.)」
* ウクラニアン・クォータリー (ウクライナ四季報。''Ukrainian Quarterly''。アメリカのウクライナ等東欧に関する学術ジャーナル)。Ukrainian Society of America 1944。「したがって私たちは、イングランドのオリヴァー・クロムウェルによるアイルランド人民の大量虐殺について、それを非難する権利がある…… (Therefore, we are entitled to accuse the England of Oliver Cromwell of the genocide of the Irish civilian population..)」