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|image=[[File:Oliver CromwellUT.jpg|250px]]
|caption=オリバー・クロムウェル。1649年にイングランド議会に代わってアイルランドを再占領するため上陸した。彼はアイルランド東部と南部を落とし1650年に去った。指揮権はヘンリー・アイアトンに移された。
|partof=
|date=[[1649年]]8月
|place=[[アイルランド島]]
|casus=[[アイルランド・カトリック同盟]]と
|result=イングランド[[円頂党|議会派]]がアイルランドを占領、
|combatant1=イングランド
|combatant2=イングランド議会派[[ニューモデル軍]]および同盟していたアイルランドの[[プロテスタント]]
|commander1=[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](1649年 - 1650年12月)<br />[[ユーリク・バーク (初代クランリカード
|commander2=[[オリバー・クロムウェル]](1649年 - 1650年5月)<br />[[ヘンリー・アイアトン]](1650年5月 - 1651年11月)<br />[[チャールズ・フリートウッド]](1651年11月 - 1653年4月)
|strength1=最高で60,000人以上。ただし常時20,000人ほどいたゲリラ兵含む
|strength2=1649年から53年に約30,000のニューモデル軍。加えて軍事行動以前にアイルランドに拠点を構築もしくは決起した10,000人の軍隊
|casualties1=不明。15,000から20,000人が戦場で、200,000人以上の市民が戦争関連の飢餓や疫病で犠牲に。<br />およそ12,000人が奴隷として輸出された
|casualties2=8,000人のニューモデル兵、約7,000人の現地結成軍
|}}
<!---該当テンプレートがないため{{Campaignbox Cromwellian conquest of Ireland}}--->
'''クロムウェルのアイルランド侵略'''
== 名称 ==
「{{仮リンク|アイルランド革命 (1641年)|en|Irish Rebellion of 1641|label=アイルランド革命}}」([[1641年]])、「クロムウェルのアイルランド侵略」([[1649年]] - [[1653年]])の総称として『{{仮リンク|アイルランド同盟戦争|en|Irish Confederate Wars|label=11年戦争}}』({{lang-en|Eleven Years War}}、
== 概要 ==
1649年、クロムウェルは彼の指揮下にある{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}と共にイングランドの[[長期議会]]([[円頂党|議会派]])の代理、アイルランド派遣軍司令官としてアイルランドに上陸した。[[1641年]]の
クロムウェルとその軍隊はアイルランドにおいてアイルランド・カトリック同盟と国王派の連合軍を撃破、アイルランドを占領した。これにより この悪行に対するクロムウェル == 背景 ==
*1649年に
*仮にカトリック同盟が国王派と同盟を結ばなかったとしても、
*加えて、議会派議員の多くが、1641年反乱の際に起きたイングランド人プロテスタント移民に対する残虐行為を罰したいと望んでいたこと。
*アイルランドのいくつかの都市
*議会派は内戦中の1642年以降
*クロムウェルやその軍隊の多くは[[ピューリタン]]で、彼らからすれば
== 経過 ==
{{main|ラスマインズの戦い}}
カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド公指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する[[ラスマインズ]] ([[:en:Rathmines|Rathmines]]) に集結した。しかし国王派が展開中の8月2日、ジョーンズは[[ラスマインズの戦い|奇襲を仕掛け]]これを敗走させた。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張し<ref>McKeiver, A New History of Cromwell's Irish Campaign, page.59</ref>、クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである。」と評した<ref>Antonia Fraser, Cromwell, our Chief of Men (1973), p. 324</ref>。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。[[キンセール]] ([[:en:Kinsale|Kinsale]]) において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で8月15日に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。▼
カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド侯指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する{{仮リンク|ラスマインズ|en|Rathmines}}に集結した。
▲
オーモンド公の軍隊は混乱の中ダブリン周辺から撤退した。ラスマインズでの予想外の敗北で彼らは意気消沈しており、短期間のうちに再度会戦することはできなかった。その結果オーモンド公は、アイルランド東海岸の城塞都市を保持してクロムウェルの進軍を冬まで引き付けることを望み、「ハングリー大佐とシック少佐 <ref>原文ではColonel Hunger and Major Sickness</ref>(つまり飢餓と病)」が彼らを漸減させることを願った<ref>Padraig Lenihan, Confederate Catholics at War, p.113</ref>。▼
{{仮リンク|キンセール|en|Kinsale}}において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で[[8月15日]]に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。
== ドロヘダ攻城戦 ==▼
{{main|ドロヘダ攻城戦|[[:en:Siege of Drogheda]]}}▼
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすために侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的に運ぶためである。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]]率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。クロムウェル軍が都市を攻略した際、クロムウェルの命令によって大部分の駐留兵とカトリック聖職者たちは大虐殺を受けた。多くの市民も略奪の際に犠牲になり、アーサー・アーストンは[[ラウンドヘッド]] ([[:en:Roundhead|Roundhead]]。議会派清教徒のこと) らに、自身の木製義足で殴り殺された<ref>Fraser, pp.336-339. Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p. 98</ref>。駐留軍とドロヘダ市民 (これには町の教会に避難していた1000人を含んでいた) への虐殺はアイルランドにおいて恐怖として受け取られ、今日においてもクロムウェルの過剰な残忍性を示すものとして記憶されている<ref>O Siochru, ''God's Executioner'', pp. 82-91. Faber & Faber (2008)</ref>。しかし近年では、ドロヘダの虐殺は17世紀当時の[[攻城戦]]の標準的なそれと比べて異常に厳しいものではなかったという主張もある (たとえばトム・ライリーの''Cromwell, an Honourable Enemy'', Dingle 1999)。ドロヘダを抜いたのち、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは[[ロバート・ヴェナブルス]] ([[:en:Robert Venables|Robert Venables]]) が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を[[リスナガーヴェイの戦い]] ([[:en:battle of Lisnagarvey|battle of Lisnagarvey]]) で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスターの[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっているもので、マウントラス伯[[チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|チャールズ・クート]] ([[:en:Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath]])が率いていた。▼
▲オーモンド
== ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン ==▼
▲=== ドロヘダ攻城戦 ===
上陸するや、クロムウェルはアイルランド東岸の他の都市を落とすために侵攻を開始した。増補とイングランドからの物流を能率的に運ぶためである。最初に陥落したのはダブリンの北50kmほどにある都市[[ドロヘダ]]であった。ドロヘダには[[アーサー・アーストン (イングランド将校)|アーサー・アーストン]]率いる国王派、カトリック同盟兵の連合軍3000人が駐留していた。
▲
ドロヘダを抜いた後、1642年に上陸したスコットランドの[[国民盟約]]軍の生き残りから東部[[アルスター]]を奪取するために、クロムウェルは{{仮リンク|ロバート・ヴェナブルス|en|Robert Venables}}が指揮する5000人を差し向けた。彼らはスコットランド軍を{{仮リンク|リスナガーヴェイの戦い|en|battle of Lisnagarvey}}で破り、この地域の議会派軍と合流した。この軍は西アルスターの[[ロンドンデリー|デリー]]周辺のイングランド人移民が元になっているもので、マウントラス伯{{仮リンク|チャールズ・クート (初代マウントラス伯)|en|Charles Coote, 1st Earl of Mountrath|label=チャールズ・クート}}が率いていた。
▲=== ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン ===
[[File:kilkenny castle.jpg|250px|thumb|キルケニー城。カトリック同盟の首都であったキルケニーは1650年に陥落した。]]
{{main|ウェックスフォードの略奪|ウォーターフォード包囲戦
ニューモデル軍はウェックスフォード、ウォーターフォード、そして
ウェックスフォードの略奪におけるクロムウェルの責任については意見が分かれている。彼は町への攻撃を命じておらず、軍が町に突入した時は降伏を協議している時であった。一方でクロムウェルを批判する人は、彼が軍を止める努力をほぼしておらず、 おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンド
一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、{{仮リンク|クロンメル|en|Clonmel}}、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこで兵士に多数の病死者 (主に[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦({{仮リンク|ウォーターフォード包囲戦|en|Siege of Waterford}})の末翌[[1650年]]に降伏した。
=== クロンメルとマンスター侵略 ===
[[File:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1650年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した。こちらはカトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される。ニューモデル軍は{{仮リンク|クロンメル攻城戦|en|Siege of Clonmel}}において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。
オーモンド
=== 国王派連合の崩壊 ===▼
1650年5月、チャールズ2世は父(チャールズ1世)がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの国民盟約との同盟を選んだためである({{仮リンク|ブレダ条約 (1650年)|en|Treaty of Breda (1650)|label=ブレダ条約}}も参照)。これはオーモンド侯のアイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。
▲おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンド公は、クロムウェル軍の恐ろしさによって自軍が麻痺していると考えていた。その後、[[ニュー・ロス]] ([[:en:New Ross|New Ross]])、[[カーロー]] ([[:en:Carlow|Carlow]]) や[[キルケニー市]]といった町や都市はクロムウェル軍によって包囲されると、協議に従って降伏している。一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、[[クロンメル]] ([[:en:Clonmel|Clonmel]])や、[[リムリック]]そして[[ゴールウェイ]]といった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこでは兵士に多数の病死者 (おもに[[腸チフス]]と[[赤痢]]) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦の末1650年に降伏した。
===
{{main|スキャリフフォリスの戦い}}
▲{{main|クロンメル攻城戦|[[:en:Siege of Clonmel]]}}
残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の軍団で、これは1649年に死亡した{{仮リンク|オーウェン・ロー・オニール|en|Owen Roe O'Neill}}が以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、{{仮リンク|ヒーバー・マクマホン|en|Heber MacMahon}}という経験未熟なカトリック司教が率いていた。
▲[[File:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1650年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。のち1651年のリムリック包囲戦中に病没。]]
▲春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した (カトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される)。ニューモデル軍は[[クロンメル攻城戦]]において城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェルの軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず、市民の生命と財産の保証さらにはそれを守っていた (武装を解除していない) アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、彼は尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。
▲オーモンド公率いる国王派はいまだに[[マンスター]]地方の大部分を保持していたが、[[コーク (アイルランド)|コーク]]に位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたのはブリテン島のプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を[[マックルームの戦い]] ([[:en:battle of Macroom|battle of Macroom]]) で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍は[[シャノン川]]を超えて[[コノート]]地方に撤退し、またマンスターにとどまった軍は[[ケリー州]]の要塞に撤退した。
=== リムリックとゴールウェイの包囲 ===▼
▲== 国王派連合の崩壊 ==
▲1650年5月、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は父親 (チャールズ1世) がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの[[国民盟約]]との同盟を選んだためである ([[ブレダ条約 (1650年)]] ([[:en:Treaty of Breda (1650)|Treaty of Breda (1650)]]) も参照のこと)。これはオーモンド公の、アイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。クロムウェルはアイルランドのプロテスタント系国王派に対して寛大な降伏条約を提示し、結果多くが降伏もしくは議会派側へつくことになった。これにより地図にはアイルランドカトリック兵の残党と、徹底抗戦の構えを崩さない少数のイングランド人国王派だけが残ることになった。また、先述の点から、司教や聖職者を含む多くのアイルランド人カトリック教徒には、なぜオーモンド公の主君である国王が自分たちとの同盟を拒否したこの期に及んでも、彼がリーダーであることを認めているのかという疑問が出た。1650年5月、クロムウェルは{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}([[1649年]] - [[1651年]])においてスコットランドの[[国民盟約]]と戦うためにアイルランドを去り、指揮権は[[ヘンリー・アイアトン]]に移された。
[[File:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの
10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。アイルランド人貴族であるクランリカード侯{{仮リンク|ユーリク・バーク (初代クランリカード侯)|en|Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde|label=ユーリク・バーク}}率いる軍はこれを食い止めようとしたが{{仮リンク|ミーリック島の戦い|en|battle of Meelick Island}}で奇襲を受け敗北した。
オーモンド侯は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド侯は12月に[[フランス王国|フランス]]に逃れ、彼の代わりにクランリカード侯が指揮官になった。だがアイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市リムリックとゴールウェイを守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。
▲残されたアイルランド人と国王派の中でもっとも強大なものは6,000人を擁する[[アルスター]]の軍団で、これは1649年に死亡した[[オーウェン・ロー・オニール]] ([[:en:Owen Roe O'Neill|Owen Roe O'Neill]]) が以前率いていたものであった。しかしこの軍団は当時、[[ヒーバー・マクマホン]] ([[:en:Heber MacMahon|Heber MacMahon]]) という経験未熟なカトリック司教が率いていた。アルスター軍は1650年6月に[[ドニゴール]] ([[:en:Donegal|Donegal]]) で、おもに英国移民で構成される議会派軍およびチャールズ・クート率いる軍と激突した (Scarrifholisの戦い)。アルスター軍は総崩れとなり、2,000人もの戦死者を出し<ref>McKeiver,A New History of Cromwell's Irish Campaign p.167</ref>、加えてマクマホンや大部分のアルスター軍の指揮官が戦死もしくはとらえられ処刑された。最後の強大な反議会派野戦部隊が敗退したことにより、議会派はアルスターの北部を確保した。クートの軍は北部におけるカトリック勢力最後の拠点[[チャールモント攻城戦|チャールモントにおける攻城戦]] ([[:en:Siege of Charlemont|Siege of Charlemont]]) で大きな損害を受けたにもかかわらず、アイルランド南部および西海岸になだれ込むことができた。
アイアトンがリムリックを包囲する一方でマウントラス伯はゴールウェイを囲んだが({{仮リンク|リムリック包囲戦 (1650年)|en|Siege of Limerick (1650-51)|label=リムリック包囲戦}}、{{仮リンク|ゴールウェイ包囲戦|en|Siege of Galway}})、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、Knocknaclashyの戦いで迎撃され敗北した([[:en:battle of Knocknaclashy|battle of Knocknaclashy]])。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌[[1652年]]に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した<ref>Micheal O Siochru, God's Executioner, Oliver Cromwell and Conquest of Ireland, p.187</ref>。
▲== リムリックとゴールウェイの包囲 ==
▲{{main|リムリック包囲戦 (1650年)|ゴールウェイ包囲戦|[[:en:Siege of Limerick (1650-51)]]|[[:en:Siege of Galway]]}}
▲[[File:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの[[キングジョンズ・カッスル]] ([[:en:King John's Castle (Limerick)|King John's Castle]]) とソーモンド・ブリッジ。アイアトンは長い包囲の末1651年にリムリックを落とした。]]
=== ゲリラ戦と飢餓と疫病 ===
[[File:Old-Galway.jpg|344px|thumb|Right|強固な陣地を築いた1651年のゴールウェイ。ここは議会派が落とした最後のアイルランド人拠点で、1652年に降伏した。]]
ゴールウェイの陥落はクロムウェルの侵略に対する組織的抵抗の終結を表していたが、議会派に対して小規模のアイルランド人部隊が[[ゲリラ戦]]を開始したため戦いは続いた。
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幾人かは、このような観点で見ていくと、1649年から53年の議会派の軍事行動の苛烈さは、クロムウェルが長い間戦うことができなかったことを考えれば、異常ではないと主張した。繰り返すが、このことについては上述した通り激しい議論がある<ref>John Morrill. "Rewriting Cromwell: A Case of Deafening Silences." Canadian Journal of History. Dec 2003: 19</ref>。
それでも、1649年から53年の軍事行動がアイルランドの一般市民に悪名高い記憶として残り続けているのは、アイルランド人に膨大な犠牲者数が出たという責任がある為である。この原因は、ヘンリー・アイアトン、ジョン・ヒューソンやエドマンド・ラドロ
また、歴史作家の[[ティム・パット・クーガン]] ([[:en:Tim Pat Coogan|Tim Pat Coogan]]) は、クロムウェルやその部下の行動を、ジェノサイド (大量虐殺) として描写した<!-- 以下genocideのレフ開始--><ref name="genocide">* ''アルバート・ブレトン'' (Albert Breton。作家、1995年)。''Nationalism and Rationality''. Cambridge University Press 1995の248ページ。「オリヴァー・クロムウェルは、アイルランド人カトリック教徒に、大量虐殺と強制移住という選択肢のどちらかを与えた。("Oliver Cromwell offered Irish Catholics a choice between genocide and forced mass population transfer.)」
* ウクラニアン・クォータリー (ウクライナ四季報。''Ukrainian Quarterly''。アメリカのウクライナ等東欧に関する学術ジャーナル)。Ukrainian Society of America 1944。「したがって私たちは、イングランドのオリヴァー・クロムウェルによるアイルランド人民の大量虐殺について、それを非難する権利がある…… (Therefore, we are entitled to accuse the England of Oliver Cromwell of the genocide of the Irish civilian population..)」
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