「クロムウェルのアイルランド侵略」の版間の差分

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カトリック同盟の末期である1649年には、議会派の拠点は[[ダブリン]]に残されているだけであり、マイケル・ジョーンズ大佐が指揮をしていた。都市および議会派が上陸可能であった港を奪取するためにオーモンド侯指揮下の国王派とカトリック同盟の連合軍は、ダブリンの南に位置する{{仮リンク|ラスマインズ|en|Rathmines}}に集結した。
 
しかし国王派が展開中の[[8月2日]]、ジョーンズは[[ラスマインズの戦い|奇襲を仕掛け]]これを敗走させた([[ラスマインズの戦い]])。ジョーンズは4000人の国王派およびカトリック同盟兵士を殺害し、加えて2517人を捕虜としたと主張<ref>McKeiver, A New History of Cromwell's Irish Campaign, page.59</ref>、クロムウェルはこの戦いを「驚くべき幸運、すばらしい、格好のタイミングで私たちにとって夢のようである」と評した<ref>Antonia Fraser, Cromwell, our Chief of Men (1973), p. 324</ref>。アイルランドの首都を維持できたこと、そして自分たちが安全に上陸可能な港を確保できたことを意味していたからである。
 
{{仮リンク|キンセール|en|Kinsale}}において[[ロバート・ブレイク]]提督が[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]率いる国王派艦隊の生き残りを封じ込めている間、クロムウェルは兵士と武装を満載した35隻の船で[[8月15日]]に上陸した。2日後には副司令官でクロムウェルの婿でもある[[ヘンリー・アイアトン]]がさらに77隻の船で上陸している<ref>Fraser, Cromwell our Chief of Men, p.326</ref>。
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[[File:kilkenny castle.jpg|250px|thumb|キルケニー城。カトリック同盟の首都であったキルケニーは1650年に陥落した。]]
{{main|ウェックスフォードの略奪|ウォーターフォード包囲戦}}
ニューモデル軍はウェックスフォード、ウォーターフォード、そして{{仮リンク|ダンカノン|en|Duncannon}}の港を確保するために進軍した。ウェックスフォードはもう1つのいまわしい残虐行為({{仮リンク|ウェックスフォードの略奪|en|Sack of Wexford}})があった都市である。10月に議会軍はウェックスフォードを包囲、降伏交渉が進行している最中に議会軍は町に侵入して略奪をはたらき、2000人の兵士と1500人の市民を殺害、町の多くを焼き払ったのである<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p100</ref>。
 
ウェックスフォードの略奪におけるクロムウェルの責任については意見が分かれている。彼は町への攻撃を命じておらず、軍が町に突入した時は降伏を協議している時であった。一方でクロムウェルを批判する人は、彼が軍を止める努力をほぼしておらず、事後にも罰をほとんど与えなかった点を指摘している。
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=== クロンメルとマンスター侵略 ===
{{main|クロンメル攻城包囲戦}}
[[File:Henry Ireton2.jpg|right|thumb|ヘンリー・アイアトン。クロムウェルは1650年にアイルランドにおける議会軍の指揮権を彼に渡した。後に1651年のリムリック包囲戦中に病没。]]
春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した。こちらはカトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される。ニューモデル軍は1650年4月から5月に行った{{仮リンク|クロンメル攻城包囲戦|en|Siege of Clonmel}}においてで、城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。それにもかかわらず町は翌日に降伏している。
 
キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェル軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず、市民の生命と財産の保証、さらには都市を守っていた(武装を解除していない)アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、クロムウェルは尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。
 
オーモンド侯率いる国王派はいまだに[[マンスター]]地方の大部分を保持していたが、[[コーク (アイルランド)|コーク]]に位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたのはブリテン島から赴任していたプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を[[5月10日]]の{{仮リンク|マックルームの戦い|en|battle of Macroom}}で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍は[[シャノン川]]を超えて[[コノート]]地方に撤退し、マンスターにとどまった軍は[[ケリー州]]の要塞に撤退した。
 
=== 国王派連合の崩壊 ===
1650年5月、チャールズ2世は父(チャールズ1世)がカトリック同盟と結んでいた同盟を破棄した。これはカトリック同盟よりもスコットランドの国民盟約との同盟を選んだためである({{仮リンク|ブレダ条約 (1650年)|en|Treaty of Breda (1650)|label=ブレダ条約}}も参照)。これはオーモンド侯のアイルランドにおける国王派の長としての地位を完全に引きずり下ろす形になった。
 
クロムウェルはアイルランドのプロテスタント系国王派に対して寛大な降伏条約を提示し、結果多くが降伏もしくは議会派側へつくことになった。これによりアイルランドにはアイルランドカトリック兵の残党と、徹底抗戦の構えを崩さない少数のイングランド人国王派だけが残ることになった。また、先述の点から、司教や聖職者を含む多くのアイルランド人カトリック教徒には、なぜオーモンド侯の主君である国王が自分たちとの同盟を拒否したこの期に及んでも、彼がリーダーであることを認めているのかという疑問が出た。5月、クロムウェルは{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}(1649年 - [[1651年]])においてスコットランドの国民盟約と戦うためにアイルランドを去り、指揮権は副司令官アイアトンに移された。
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=== リムリックとゴールウェイの包囲 ===
{{main|リムリック包囲戦 (1650年-1651年)|ゴールウェイ包囲戦}}
[[File:John Castle Limerick-seabhcan.jpg|thumb|リムリックの{{仮リンク|キング・ジョンズ・カッスル (リムリック)|en|King John's Castle (Limerick)|label=キング・ジョンズ・カッスル}}とソーモンド・ブリッジ。アイアトンは長い包囲の末1651年にリムリックを落とした。]]
10月、議会派はシャノン川を越えてコノートの西部に入った。アイルランド人貴族であるクランリカード侯{{仮リンク|ユーリク・バーク (初代クランリカード侯)|en|Ulick Burke, 1st Marquess of Clanricarde|label=ユーリク・バーク}}率いる軍はこれを食い止めようとしたが{{仮リンク|ミーリック島の戦い|en|battle of Meelick Island}}で奇襲を受け敗北した。
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オーモンド侯は負け戦が続いたためにアイルランド人と国王派からの信頼を失い、もはや彼が指揮していた軍、特にカトリック同盟からは完全に信用を失っていた。オーモンド侯は12月に[[フランス王国|フランス]]に逃れ、彼の代わりにクランリカード侯が指揮官になった。だがアイルランド人と国王派の連合軍はシャノン川の西岸に追い詰められ、強固な城塞で守られたアイルランド西岸の都市リムリックとゴールウェイを守りきることに最後の望みをかけた。これらの都市は強固な近代的防御力を誇り、ドロヘダやウェックスフォードのような直接攻撃では落とすことはできなかった。
 
アイアトンがリムリックを包囲する一方でマウントラス伯はゴールウェイを囲んだが({{仮リンク|リムリック包囲戦 (1650年-1651年)|en|Siege of Limerick (1650-511650–1651)|label=リムリック包囲戦}}、{{仮リンク|ゴールウェイ包囲戦|en|Siege of Galway}})、堅固な防御で固められた都市を落とすことができず、代わりに兵糧攻めを行い飢えと病気で降伏せざるを得なくしようとした。ケリーからのアイルランド軍は南からリムリックを救援しようとしたが、Knocknaclashyの戦いで迎撃され敗北した([[:en:battle of Knocknaclashy|battle of Knocknaclashy]])。結果リムリックは1651年に、ゴールウェイも翌[[1652年]]に陥落した。しかし病は無差別に、そして何千もの議会派軍を殺し、アイアトンも疫病で1651年にリムリックの外にて陣没した<ref>Micheal O Siochru, God's Executioner, Oliver Cromwell and Conquest of Ireland, p.187</ref>。
 
=== ゲリラ戦と飢餓と疫病 ===
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ゴールウェイの陥落はクロムウェルの侵略に対する組織的抵抗の終結を表していたが、議会派に対して小規模のアイルランド人部隊が[[ゲリラ戦]]を開始したため戦いは続いた。
 
ゲリラ戦への移行は1650年後半から始まっており、1651年にアイルランド人と国王派の連合軍が敗北したにもかかわらず、議会派に対抗する兵士はまだ30,000人ほどいると推測された。[[トーリー (Toriesイギリス)|トーリー]](Tories。アイルランド語の単語tóraidheから「ならず者」の意) は[[アレン泥炭地|アレン湿地帯]] や[[ウィックロー山地]] ([[:en:Wicklow Mountains|Wicklow Mountains]])、そして[[{{仮リンク|ドラムリン]] ([[:|en:Drumlin|Drumlin]]) }}といった移動の難所から数か月内で活動し、議会派は大規模行軍を除いては極めて危険な状態になった。アイアトンは1650年にトーリーを鎮圧するためウィックロー山地へ征討を行うが、成功しなかった。
 
1651年前半には、イングランドの輜重隊は軍事拠点から2マイル以上行軍する場合安全ではなかったと報告された。それにこたえて、議会派軍はトーリーを支援していると考えられた一般人を強制的に追い立て、食糧供給源を破壊した。[[{{仮リンク|ジョン・ヒューソン (レジサイド)|en|John Hewson (regicide)|label=ジョン・ヒューソン]] ([[:en:John Hewson (regicide)|John Hewson]]) }}は[[ウィックロー州]]と[[キルデア州]]で組織的に食糧備蓄を破壊し、[[{{仮リンク|ハードレス・ウォーラー]] ([[:|en:|Hardress Waller|Hardress Waller]]) }}も[[クレア州]]のバレン (Burren) (Burren)で同様に、クック大佐も[[ウェックスフォード州]]で同じことを行った。その結果、アイルランドのあちこちで[[飢饉]]が発生、さらに[[腺ペスト]]の流行が状況をさらに悪化させた<ref>Lenihan, p.122</ref>。ゲリラ戦が長く続いたため、議会派は1651年4月付でウィックロー州や多くの南部州を今の言葉でいう[[無差別砲撃地帯]] ([[:en:Free fire zone|free-fire zone]]) とし、見つけたら誰でも「敵として殺害、滅ぼし、さらに彼らの家畜や資産は敵の持ち物として取るか奪うかすべし (taken slain and destroyed as enemies and their cattle and good shall be taken or spoiled as the goods of enemies) 」とした<ref>James Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。この戦術は1603年に終結した[[9年戦争 (アイルランド)|9年戦争]] ([[:en:Nine Years' War (Ireland)|Nine Years' War]]) でも効果的であった。加えて捕虜を[[年季奉公]]人として[[西インド諸島]] (特に[[バルバドス]]など。バルバドスではその子孫は[[レッドレッグ]] ([[:en:Redlegs|Redlegs]]) と呼ばれた) に売り払うことも始まり、イングランド共和体制のもと合計12,000人が奴隷として売り払われた<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p134</ref>。
 
ゲリラ戦が長く続いたため、議会派は1651年4月付でウィックロー州や多くの南部州を今の言葉でいう{{仮リンク|無差別砲撃地帯|en|Free fire zone}}とし、見つけたら誰でも「敵として殺害、滅ぼし、さらに彼らの家畜や資産は敵の持ち物として取るか奪うかすべし(taken slain and destroyed as enemies and their cattle and good shall be taken or spoiled as the goods of enemies)」とした<ref>James Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。この戦術は[[1603年]]に終結した{{仮リンク|9年戦争 (アイルランド)|en|Nine Years' War (Ireland)|label=9年戦争}}でも効果的であった。加えて捕虜を[[年季奉公]]人として[[西インド諸島]] (特に[[バルバドス]]など。バルバドスではその子孫は{{仮リンク|レッドレッグ|en|Redlegs}}と呼ばれた) に売り払うことも始まり、イングランド共和体制のもと合計12,000人が奴隷として売り払われた<ref>Kenyon, Ohlmeyer, The Civil Wars, p134</ref>。
戦争のこの時期は一般市民の犠牲が大きく、戦争、飢饉、そして疫病の組み合わせはアイルランドの住民に莫大な死者を出した。[[ウィリアム・ペティ]]は1641年以来のアイルランドにおける犠牲者数を618,000人以上、もしくは戦前の人口の40%と見積もった ([[ダウン・サーヴェイ]] ([[:en:Down Survey|Down Survey]]) より)。このうち400,000人はカトリック教徒で、167,000人は戦争や飢餓で直接的に殺され、残りは戦争に関連する疫病で死亡したと見積もった<ref>Kenyon & Ohlmeyer The Civil Wars, p.278. Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。
 
戦争のこの時期は一般市民の犠牲が大きく、戦争、飢饉、そして疫病の組み合わせはアイルランドの住民に莫大な死者を出した。[[ウィリアム・ペティ]]は1641年以来のアイルランドにおける犠牲者数を618,000人以上、もしくは戦前の人口の40%と見積もった ([[({{仮リンク|ダウン・サーヴェイ]] ([[:|en:Down Survey|Down Survey]]) }}より)。このうち400,000人はカトリック教徒で、167,000人は戦争や飢餓で直接的に殺され、残りは戦争に関連する疫病で死亡したと見積もった<ref>Kenyon & Ohlmeyer The Civil Wars, p.278. Scott Wheeler, Cromwell in Ireland</ref>。
結局、ゲリラ戦は議会派が1652年に降伏条約を発表すると終結した。これはアイルランド軍が、イングランド共和国との戦争で戦わないという条件付きで、外国へ渡り軍に加わることを許可したものであり、ほとんどはフランスもしくはスペインに渡った。ジョン・フィッツパトリック (John Fitzpatrick。ラインスター)、エドマンド・オドワイアー (Edmund O'Dwyer。マンスター)、エドマンド・デイリー (Edmund Daly。コノート) といった最大規模のアイルランドゲリラ軍はその年の5月にキルケニーで調印された条約により降伏した。しかしその年の終わりにも、まだ11,000人ほどがまだ地域 (大部分はアルスター) に存在していると考えられていた。最後のアイルランドと国王派の連合軍 (フィリップ・オライリーに率いられていたアルスターのカトリック連合の生き残り) は1653年4月27日、[[キャバン州]]Cloughoughterにおいて正式に降伏した。しかし、小規模のゲリラ戦はその後10年あまり続き、広範囲に無法地帯が広がり強盗団がはびこることになった。トーリーの一部がただの強盗団 ([[アウトロー]]) であったことは疑いがないが、一方でそのほかのそれは政治的な動機があった。
 
結局、ゲリラ戦は議会派が1652年に降伏条約を発表すると終結した。これはアイルランド軍が、イングランド共和国との戦争で戦わないという条件付きで、外国へ渡り軍に加わることを許可したものであり、ほとんどはフランスもしくは[[スペイン]]に渡った。ジョン・フィッツパトリック (John(John Fitzpatrick。ラインスター)、エドマンド・オドワイアー (Edmund(Edmund O'Dwyer。マンスター)、エドマンド・デイリー (Edmund(Edmund Daly。コノート) といった最大規模のアイルランドゲリラ軍はその年の5月にキルケニーで調印された条約により降伏した。しかしその年の終わりにも、まだ11,000人ほどがまだ地域 (大部分はアルスター) に存在していると考えられていた。最後のアイルランドと国王派の連合軍 (フィリップ・オライリーに率いられていたアルスターのカトリック連合の生き残り) は1653年4月27日、[[キャバン州]]Cloughoughterにおいて正式に降伏した。しかし、小規模のゲリラ戦はその後10年あまり続き、広範囲に無法地帯が広がり強盗団がはびこることになった。トーリーの一部がただの強盗団 ([[アウトロー]]) であったことは疑いがないが、一方でほかのそれトーリーには政治的な動機があった。
 
== クロムウェルによる土地資産処分 ==
{{main|アイルランドにおける土地資産処分法 (1652年)|土地資産処分法 (1662年)|[[:en:Act for the Settlement of Ireland 1652]]|[[:en:Act of Settlement 1662]]}}
クロムウェルはアイルランドのカトリック教徒に対して極めて厳しい土地処分を強要した。これは彼のカトリックに対する根深い反感のためと、1641年のアイルランド反乱、特にアルスターにおけるプロテスタント移民の虐殺を罰するためであった。また、彼は軍隊の給金を払うために金を集める必要があり、さらに1642年に冒険探検家法によって資金提供を受けていたロンドンの商業者にそれを返す必要があった。
 
1641年のアイルランド反乱に関係した人は誰であっても処刑され、カトリック連合に加わったすべての人の土地は没収され、さらに数千人が奴隷として西インド諸島に移送された。戦争に加担しなかったカトリック地主は、補償としてコノートの土地を請求する権利があったにもかかわらず、彼らの土地は没収された。加えて、カトリックは都市に住むことを許されなかった。カトリック連合と国王派の連合軍で戦ったアイルランド人兵士は、かなりの数がスペインやフランスの軍で職を見つけるために国を去った。ウィリアム・ペティはこの数を54,000人と推測している。カトリックの儀式は禁止され、聖職者の捕縛に対しては懸賞金が支給された。聖職者たちは見つかった場合処刑された。
 
長期議会は冒険探検家法に1642年署名したが、これは議会派の債権者は債務の返還を、アイルランドで没収された土地をその補償として請求できることが記されていた。さらに、アイルランドに従軍した議会派の兵士は賃金の代わりに、アイルランドで没収された土地を割り当てられる権利があったが、議会は賃金を完全に支払うことができなかった。その結果、ニューモデル軍の何千もの古参兵士がアイルランドに移住した。加えて、戦前からのプロテスタント移民は所有している土地を大きく増やした ([[({{仮リンク|アイルランドの植民地域|en|Plantations of Ireland|label=クロムウェル派の植民地域]] ([[:en:Plantations of Ireland#The Cromwellian Plantation|The Cromwellian Plantation]]) }}を参照)。戦争のアイルランド人カトリック教徒はアイルランド島全土の60%を所持していたが、[[イングランド王政復古]]の際カトリック国王派に補償がなされたときには、20%にまで低下していた。共和制時代の期間中にカトリック地主は8%にまで減っていた。さらに1660年の王政復古後でさえ、カトリック教徒は[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]はともかくとしてすべての官公庁から締め出されていた<ref>Lenihan, p. 111</ref>。
 
== 史的な議論 ==
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{{cquote|"I do hereby warn....all Officers, Soldiers and others under my command not to do any wrong or violence toward Country People or any persons whotsoever, unless they be actually in arms or office with the enemy.....as they shall answer to the contrary at their utmost peril".}}
 
この命令の目的の少なくとも一つは、軍の食糧やそのほか必需品を地元住民が販売してくれるように保険を掛けておくことであった。1650年にはーリック島の戦いにおいて、議会軍の{{仮リンク|ダニエル・アクステル大佐 ([[:|en|:Daniel Axtell|Daniel Axtell]]) }}大佐が、指揮下の兵によって行われた残虐行為のために軍法会議にかけられたことも注視する必要がある。
 
クロムウェルの批判者は、カトリック住民に彼への抵抗を訴えるカトリック司教に対する、彼の返答に注目する。彼は「''カトリック住民を虐殺し、追放し、滅ぼす'' (massacre(massacre, banish and destroy the Catholic inhabitants)inhabitants)」という意図はなかったと述べているが、「もし彼らが抵抗するなら私は、彼らに降りかかる苦痛と破壊、血と破滅から自由にすることを願い、彼らに対して最高度の激烈を行使することを喜ぶだろう。(if(if they did resist ''I hope to be free from the misery and desolation, blood and ruin that shall befall them, and shall rejoice to exercise the utmost severity against them''.)」としている。
 
また、トム・ライリーの『Cromwell, an Honourable Enemy』によって近年論じられるが<ref>Reilly, Dingle 1999 {{Page needed|date=September 2008}}</ref>、ドロヘダやウェックスフォードで起きたことは、17世紀当時の攻城戦の標準からすれば異常というほどのものではなく、陥落した町に駐留していた軍は、将来の抵抗を抑えるためにふつうは殺された。雑誌「ヒストリー・アイルランド」はこの見方を退けている。「彼 (ライリー) の主な命題である、クロムウェルはドロヘダやウェックスフォードで命を奪う道徳的な権利はなかっただろうが『しかし、彼の側からすればしっかりした規則を持っていたのは疑いない』、というのは考査に耐えられないものである」とした。似たような意見では[[ジョン・モリル (歴史家)|ジョン・モリル]] ([[:en:John Morrill (historian)|John Morrill]]) が「名誉回復の大きな試みはトム・ライリーの''An Honourable Enemy (London, 1999)''で試みられたが、しかし大部分は他の学者に撥ねつけられている」とコメントした<ref>John Morrill. "Rewriting Cromwell: A Case of Deafening Silences." ''Canadian Journal of History.'' Dec 2003: 19.</ref>。さらにクロムウェルの史的批判者は、当時でさえもドロヘダやウェックスフォードでの殺害は残虐行為と考えられていた点を指摘する。批判者たちは、アイルランドにおけるアイアトン死後の議会派司令官である[[エドマンド・ラドロー]]のような史料を引き合いに出す。彼はドロヘダでクロムウェルが使った戦術を「並はずれて厳しい(extraordinary severity)」と書き残している。
 
アイルランドにおけるクロムウェルの行動は、相互にむごたらしい戦争の流れの中で起こっている。1641年から42年のアルスターにおけるアイルランド反乱軍は、プロテスタント移民 (彼らは、以前はカトリックの所有地であったのを自分たちの為に追い出して、その土地に住んでいた) が逃げだす前に4,000から12,000人を殺害した。アイルランドにおける英国系プロテスタント移民を、アイルランド人カトリック教徒が皆殺しにしようと企てているとプロテスタントが宣伝したため、この出来事は誇張された。次いで、このことはイングランド議会派およびスコットランド国民盟約軍において、アイルランドのカトリック教徒への復讐を正当化するために用いられた。1655年の議会派のパンフレットは「ジェントリ、聖職者そして平民からなるすべてのアイルランド人国民は、総体としてこの喧噪について、彼らの中に含まれるイングランド系プロテスタントを探し出し撲滅すると誓っている。(the(the whole Irish nation, consisting of gentry, clergy and commonality are engaged as one nation in this quarrel, to root out and extirpate all English Protestants from amongst them.)」と主張している<ref>Richard Lawrence, the Interest of England in Irish transplantation (1655), quoted in Lenihan, Confederate Catholics at War, p111</ref>。ある歴史家はこれを「(1641年の大虐殺は) クロムウェルの大虐殺行為と土地処分を正当化する理由となっていた (It [the 1641 massacres] was to be the justification for Cromwell's genocidal campaign and settlement.)」とまで言い放った<ref>* [[ピーター・トレメイン|ピーター・ベレスフォード・エリス]] (Peter Berresford Ellis。2002)。Eyewitness to Irish History, John Wiley & Sons Inc. ISBN 9780471266334。108ページ</ref>。
 
戦争が進んでいくと、残虐行為はいたるところで見られるようになった。モンロー将軍率いるスコットランド国民盟約軍 (1642(1642年にスコットランド議会によりアイルランドへ派兵) の兵士は、1642年1月9日マギー島において最大3,000人のカトリック教徒を虐殺した。議会軍の司令官であった第6代[[インチクィン男爵]](後の初代インチクィン伯[[爵){{仮リンク|ロウ・オブライエン (初代インチクィン伯)|マーロウ・オブライエン]] ([[:en:Murrough O'Brien, 1st Earl of Inchiquin|Murrough O'Brien|Murrough O'Brien, 1st Earl of Inchiquin|Murrough O'Brien]]) label=マロー・オブライエン}}は、1647年の[[{{仮リンク|キャセルの略奪]] ([[:|en:Sack of Cashel|Sack of Cashel]]) }}の中、コークにおいて駐屯軍とカトリック聖職者 (その中には[[{{仮リンク|シーオボルト・ステープルトン]] ([[:|en:Theobald Stapleton|Theobald Stapleton]]) }}も含まれていた)を虐殺し、「苛烈なマーロウ (Murrough(Murrough of the Burnings)Burnings)」とあだ名された (その後インチクィ男爵は1648年に寝返って国王派軍の指揮官になっている)[[{{仮リンク|ダンガンズ・ヒルの戦い|ダンガンズ・ヒル]] ([[:en:battle of Dungans Hill|battle of Dungans Hill]]) }}Scarrifholisといったスキャリフフォリスの戦いののちを経て、イングランド議会軍はアイルランド人カトリック教徒の捕虜を殺害した。同様にカトリック同盟の将軍であるタラ子爵[[{{仮リンク|トマス・プレストン (初代タラ子爵)|トマス・プレストン]] ([[:en:|Thomas Preston, 1st Viscount Tara|Thomas Preston, 1st Viscount Tara]]) label=トマス・プレストン}}は[[メイヌース]]を落とした際、カトリック教徒の守備兵を背教者としてくくり首に処した。
 
幾人かは、このような観点で見ていくと、1649年から531653年の議会派の軍事行動の苛烈さは、クロムウェルが長い間戦うことができなかったことを考えれば、異常ではないと主張した。繰り返すが、このことについては上述した通り激しい議論がある<ref>John Morrill. "Rewriting Cromwell: A Case of Deafening Silences." Canadian Journal of History. Dec 2003: 19</ref>。
 
それでも、1649年から53年の軍事行動がアイルランドの一般市民に悪名高い記憶として残り続けているのは、アイルランド人に膨大な犠牲者数が出たという責任がある為である。この原因は、ヘンリー・アイアトン、ジョン・ヒューソンやエドマンド・ラドローといった指揮官が、1650年からカトリック住民に対して行った対ゲリラ戦術であり、この時期は国の広い地域でいまだに議会軍に対する抵抗が続いていた。この戦術は無差別に、収穫物を焼き払い、人々を移動させ、一般市民を殺害した。この方針は国中で飢饉を引き起こし「1,400,000人のアイルランド総人口のうち死亡した約600,000人の大多数に対して責任がある」とされた<ref>[http://www.economics.ox.ac.uk/index.php/staff/stewart/ Frances Stewart] (2000). ''War and Underdevelopment: Economic and Social Consequences of Conflict v. 1'' (Queen Elizabeth House Series in Development Studies), Oxford University Press. 2000. p. 51</ref>。加えて、戦後のアイルランドにおけるクロムウェル派の植民地すべては、マーク・レーベン (Mark Levene) や[[アラン・アクセルロッド]] ([[:en:Alan Axelrod|Alan Axelrod]]) といった歴史家によって、アイルランド人カトリック教徒を東部の州から排除しようとした[[民族浄化]]であると描写された
 
加えて、戦後のアイルランドにおけるクロムウェル派の植民地すべては、マーク・レーベン(Mark Levene)や[[アラン・アクセルロッド]] ([[:en:Alan Axelrod|Alan Axelrod]]) といった歴史家によって、アイルランド人カトリック教徒を東部の州から排除しようとした[[民族浄化]]であると描写された。また、歴史作家の[[ティム・パット・クーガン]] ([[:en:Tim Pat Coogan|Tim Pat Coogan]]) は、クロムウェルやその部下の行動を、ジェノサイド (大量虐殺) として描写した<!-- 以下genocideのレフ開始--><ref name="genocide">* ''アルバート・ブレトン'' (Albert Breton。作家、1995年)。''Nationalism and Rationality''. Cambridge University Press 1995の248ページ。「オリヴァー・クロムウェルは、アイルランド人カトリック教徒に、大量虐殺と強制移住という選択肢のどちらかを与えた。("Oliver Cromwell offered Irish Catholics a choice between genocide and forced mass population transfer.)」
* ウクラニアン・クォータリー (ウクライナ四季報。''Ukrainian Quarterly''。アメリカのウクライナ等東欧に関する学術ジャーナル)。Ukrainian Society of America 1944。「したがって私たちは、イングランドのオリヴァー・クロムウェルによるアイルランド人民の大量虐殺について、それを非難する権利がある…… (Therefore, we are entitled to accuse the England of Oliver Cromwell of the genocide of the Irish civilian population..)」
* [[デヴィッド・ノルブルック]] ([[:en:David Norbrook|David Norbrook]]。2000年)。''Writing the English Republic: Poetry, Rhetoric and Politics, 1627-1660''. Cambridge University Press. 2000。ノルブルックは、同時代の[[アンドリュー・マーベラス]] ([[:en:Andrew Marvell|Andrew Marvell]]) がクロムウェルについて出した見方を説明する際に「彼 (クロムウェル) は、大規模な民族浄化に帰結するものであった、アイルランド人カトリック教徒を移住させる冷酷な計画の基盤を置いた…… ("He (Cromwell) laid the foundation for a ruthless programme of resettling the Irish Catholics which amounted to large scale ethnic cleansing..)」と述べている。
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* ジェームズ・M・ルッツ、ブレンダ・J・ルッツ (James M Lutz, Brenda J Lutz共著 2004).''Global Terrorism'', Routledge:London ISBN 0415700507。193ページ「オリヴァー・クロムウェルによってアイルランドに布かれた過酷な法律は、民族浄化の初期バージョンである。カトリックのアイルランド人は島の北西部地域に追い出されることになった。目的は皆殺しというよりはむしろ移住であった。(The draconian laws applied by Oliver Cromwell in Ireland were an early version of ethnic cleansing. The Catholic Irish were to be expelled to the northwestern areas of the island. Relocation rather than extermination was the goal.)」
* [http://www.soton.ac.uk/history/profiles/levene1.html マーク・レーベン] (Mark Levene。2005)。''Genocide in the Age of the Nation State: Volume 2''. ISBN 978-1845110574。55、56および57ページ。サンプルの引用は、クロムウェルの軍事行動と土地処分を「在来住民を減らすための意図的な試み (a conscious attempt to reduce a distinct ethnic population)」としている。
* マーク・レーベン (2005). ''Genocide in the Age of the Nation-State'', I.B.Tauris: London: <blockquote>(アイルランド土地処分法と)、その翌年に次いだ議会法律は、イングランド (広く言えば英国) の資料、国内の記録においては、国が認めてもうひとつの民族を機能的に民族浄化するという計画に最も近いものである。最終的に、その任務において「完全な」大量虐殺を含まず、もしくは大多数の、提案されていた追放を実行できなかったという事実は、しかしながら、それを作った人の決定的な判断、もっといえば近代イングランド国の政治的、構造的、そして財政的な弱点からだけとは言えない。([The Act of Settlement of Ireland], and the parliamentary legislation which succeeded it the following year, is the nearest thing on paper in the English, and more broadly British, domestic record, to a programme of state-sanctioned and systematic ethnic cleansing of another people. The fact that it did not include 'total' genocide in its remit, or that it failed to put into practice the vast majority of its proposed expulsions, ultimately, however, says less about the lethal determination of its makers and more about the political, structural and financial weakness of the early modern English state.)</blockquote></ref><!-- GENOCIDE レフ終わり-->。

クロムウェルの軍事行動と土地処分の余波は、カトリック教徒地主の広範囲での追い出しと、膨大な人口減少であった。結局、生き残った貧しいカトリック教徒はそれほど多くは西に移動することはなく、新しい地主のもとで自活せざるを得なかった。
 
== 長期的な結果 ==
クロムウェルのアイルランド侵略は、アイルランドの英国植民地化を完了させた。アイルランド人カトリック教徒の地主層を崩壊させ、英国のアイデンティティを持つ入植者が彼らにとって代わることになった。クロムウェルの土地処分によって起きた苦しみは、17世紀以降の[[アイルランドのナショナリズム]] ([[:en:Irish nationalism|Irish nationalism]]) の強烈な源であった。1660年の王政復古の後、チャールズ2世はイングランドの前議員たちからの政治的支持を必要としていたため、3分の1ほどの土地 (すべてではない) を元の地主に返還した。1世代ほど後の[[名誉革命]]において、アイルランド人カトリック教徒地主層は、残るクロムウェル植民地を取り戻すため、[[ウィリアマイト戦争]] (1689年から91年) において大挙して[[ジャコバイト]]の為に戦った。彼らは再び敗れ、さらに1660年以降返還された土地の多くを喪失した。結果として、アイルランドとイングランドのカトリック教徒は[[カトリック救済法 (1829年)|1829年]] ([[:en:Catholic Relief Act 1829|Catholic Relief Act 1829]]) になるまで英国の正式な政治市民となることができず、さらに1778年から93年の間までは価値のある権利として土地を所有することも法的に認められていなかった。
 
1660年の王政復古の後、チャールズ2世はイングランドの前議員たちからの政治的支持を必要としていたため、3分の1ほどの土地(すべてではない)を元の地主に返還した。1世代ほど後の[[名誉革命]]において、アイルランド人カトリック教徒地主層は、残るクロムウェル植民地を取り戻すため、[[ウィリアマイト戦争]]([[1689年]] - [[1691年]])において大挙して[[ジャコバイト]]の為に戦ったが彼らは再び敗れ、1660年以降返還された土地の多くを喪失した。
== 関連項目 ==
 
*[[三王国戦争]]
結果として、アイルランドとイングランドのカトリック教徒は[[1829年]]の{{仮リンク|カトリック救済法 (1829年)|en|Catholic Relief Act 1829|label=カトリック救済法}}が出されるまで英国の正式な政治市民となることができず、[[1778年]]から[[1793年]]の間までは価値のある権利として土地を所有することも法的に認められていなかった。
*[[アイルランド・カトリック同盟]]
*[[英国の軍事史]] ([[:en:British military history|British military history]])
*[[前近代アイルランド (1536年から1691年)]] ([[:en:Early Modern Ireland 1536-1691|Early Modern Ireland 1536-1691]])
 
== 脚注 ==
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* Stradling, R.A. ''The Spanish monarchy and Irish mercenaries'', Irish Academic Press, Dublin 1994.
 
{{アイルランド== 関連項目}} ==
*[[アイルランド・カトリック同盟]]
*[[{{仮リンク|英国の軍事史]] ([[:|en:British military history|British military history]])}}
*[[{{仮リンク|前近代アイルランド (1536年から-1691年)]] ([[:|en:Early Modern Ireland 1536-1691|Early Modern Ireland 1536-1691]])}}
 
{{アイルランド関連の項目}}
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[[Category:アイルランドの戦争]]