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'''渋谷 和四郎'''(しぶや わしろう、鷲郎とも、[[生没年不詳]])は、[[幕末]]の[[武士]][[岩鼻陣屋幕臣]]の[[関東郡代]]・木村甲斐守勝教の配下)。和四郎は'''鷲郎'''して、[[関東取締出役]]を務めた記されることも多い{{Sfn|中島明|1993|p=428-454}}
{{単一の出典|date=2018年11月29日 (木) 02:51 (UTC)}}
 
'''渋谷 和四郎'''(しぶや わしろう、鷲郎とも、[[生没年不詳]])は、[[幕末]]の[[武士]]。[[岩鼻陣屋]]の[[関東郡代]]・木村甲斐守勝教の配下として、[[関東取締出役]]を務めた。
[[岩鼻陣屋]]の[[関東郡代]]・木村甲斐守勝教の配下として、[[関東取締出役]]を務めた。
 
== 生涯 ==
[[慶応]]元年ごろから関東取締出役に所属していた{{Sfn|関東取締出役研究会|2005|p=156}}。
[[慶応]]3年[[11月 (旧暦)|11月]]([[1866年]][[12月]])、[[相楽総三]]らが企てて[[竹内啓 (幕末)|竹内啓]]らが実行した[[出流山挙兵]]を鎮圧するため、木村喜蔵らを率いて出動し、挙兵した浪士たちを壊滅させる{{Sfn|長谷川|2015|p=132}}。しかしその報復として、相楽が差し向けた峰尾忠通らに家族を鏖殺された{{Sfn|長谷川|2015|p=198}}。
 
[[慶応]]3年[[11月 (旧暦)|11月]]([[1866年]][[12月]])、[[相楽総三]]らが企てて[[竹内啓 (幕末)|竹内啓]]らが実行した[[出流山挙兵]]を鎮圧するため、木村喜蔵(樾蔵)や宮内左右平らを率いて出動し、挙兵した浪士たちを壊滅させる{{Sfn|長谷川|2015|p=132}}。その手柄で支配勘定に昇進した{{Sfn|関東取締出役研究会|2005|p=105}}。しかしその報復として、相楽が差し向けた峰尾忠通らに家族を鏖殺された{{Sfn|長谷川|2015|p=198}}。なお、実際に殺害されたのは別の幕臣の家族で、渋谷の被害は下男1人の死亡のみともされる{{Sfn|関東取締出役研究会|2005|p=106}}。
 
その後は岩鼻陣屋に留まっていたが、[[戊辰戦争]]が始まって官軍の先鋒が到達すると同所を去り、[[古屋佐久左衛門]]が率いる[[衝鋒隊]]に加わる{{Sfn|長谷川|2015|p=185}}{{Sfn|関東取締出役研究会|2005|p=108}}。[[簗田の戦い]]で敗れた後、[[下野国]][[安蘇郡]]小中村(現在の[[栃木県]][[佐野市]])の名主・石井郡造の支援を受け{{Sfn|長谷川|2015|p=185}}、衝鋒隊に復帰する。[[会津戦争]]などを転戦するが、そのまま[[越後国|越後]]で行方不明となった{{Sfn|長谷川|2015|p=199}}。
 
== 人物 ==
* 多数の博徒を手懐けていたとされ、出流山挙兵を鎮圧する際には、博徒たちも渋谷に加勢した{{Sfn|長谷川|2015|p=149}}。
 
== 関連作品 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|lastauthor=長谷川|first=伸|authorlink=長谷川伸|title=相楽総三とその同志|publisher=[[講談社学術文庫]]|year=2015|date=2015-02-11|isbn=978-4-06-292280-7|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=関東取締出役研究会|title=関東取締出役 シンポジウムの記録|publisher=岩田書院|year=2015|date=2015-10|isbn=978-4-87294-409-7|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=中島明|title=幕藩制解体期の民衆運動 -明治維新と上信濃民の動向-|publisher=[[校倉書房]]|year=1993|date=1993-04-01|isbn=978-4751722503|ref=harv}}
 
{{DEFAULTSORT:しふや わしろう}}