「井上通女」の版間の差分

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22歳の時に藩から声がかかり、当時の丸亀藩主・[[京極高豊]]の母堂養性院に待女として出仕することとなり、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])父に随伴して江戸へ向かう{{sfn|武部健一|2015|p=112}}。丸亀から船で大坂・難波に渡って関所の御しるし([[通行手形]])をもらうものの{{sfn|武部健一|2015|p=113}}、江戸に向かう道中、[[東海道]]の[[新居関所]]で通行手形の書き方のわずかな不備を指摘されて、数日間の足止めをもらう{{sfn|武部健一|2015|p=111}}。この道中で『[[東海日記]]』を執筆{{sfn|武部健一|2015|p=113}}。
 
江戸での在住中に『[[江戸日記]]』を執筆する。江戸では、母の待女という本来の職のほかにも、藩主の他の大名たちとの社交場に随伴して和歌や漢詩をつくるなど、殿様ご自慢の才女として相伴役もこなしていた{{sfn|武部健一|2015|p=112}}
 
30歳の時、藩候の母堂が亡くなったのを機に故郷の丸亀へ帰郷する{{sfn|武部健一|2015|p=112}}。道中、『[[帰家日記]]』を執筆した。
 
帰郷後は、丸亀藩士・[[三田宗寿]](茂左衛門)と結婚して一家を支え、三男二女を儲ける。