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=== 神願寺と和気氏 ===
[[ファイル:Jingoji Kyoto Kyoto06n4500.jpg|thumb|和気公霊廟]]
神護寺は、いずれも和気氏の私寺であったと思われる「神願寺」と「高雄山寺」という2つの寺院が[[天長]]元年([[824年]])に事実上合併してできた寺である。2つの前身寺院のうち、神願寺は、和気清麻呂(733 - 799)により8世紀の末頃に建てられた寺であるが、その所在地については河内[[二上山]]説、山背[[男山 (京都府)|男山]]説など諸説あり、いずれも決め手を欠いている。また、山背説の中には[[男山 (京都府)|男山]]に創建されてこれが神願寺を[[石清水八幡宮]]の源流となったして位置づける説もあるが、これも現時点では可能性の範囲に留まる<ref name=yoshie>吉江崇「石清水八幡宮寺創祀の背景」『日本歴史』753号(2011年)(所収:吉江『日本古代宮廷社会の儀礼と天皇』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1293-5)</ref>。
 
和気清麻呂は奈良時代末期〜平安時代初期の高級官僚で、歴代天皇の側近として平安京遷都などに力を発揮した。また、僧・[[道鏡]]の皇位継承問題にからんで流罪になったことでも知られている。称徳天皇(女帝・[[孝謙天皇]]重祚)の信任が厚かった僧・道鏡は「八幡大菩薩のお告げ」により皇位を継ぐ者とされていたが、称徳天皇は神意を再確認すべく、和気清麻呂を八幡大菩薩が鎮座する九州の[[宇佐神宮|宇佐八幡宮]]へ派遣した。宇佐から戻った清麻呂は「宇佐八幡は、臣下の者が皇位に就くことを望んでいない」と奏上した。これが道鏡の怒りにふれ、清麻呂と姉の[[和気広虫]](法均尼)は[[神護景雲]]3年(769年)それぞれ大隅と備後へ流罪となった。道鏡が実際に皇位を望んでいたのかどうか、事件の真相には不明な部分もあるが、翌[[宝亀]]元年(770年)には、称徳天皇が死去し、天皇の信望厚かった道鏡は左遷され、入れ代わるように清麻呂と広虫は許されて都に戻ってきた。清麻呂が和気氏の私寺である神願寺の建立を願い出たのはそれから10年後の宝亀11年(780年)とも言い、少し後の[[延暦]]年間(782年〜)とも言われる。神願寺という寺号は宇佐八幡の神意に基づいて建てた寺という意味である。延暦12年(793年)には「神願寺に能登国の墾田五十町が寄進された」旨の記録(「[[類聚国史]]」所収)があり、この年が神願寺建立時期の下限とされている。