「遣唐使」の版間の差分

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→‎回数: 第12回の判官、高麗大山と巨万大山は同一人物
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|align="center"|(15)||天平宝字6年<br />([[762年]])||align="center"| - ||colspan="2"|[[中臣鷹主]](送唐客使)・[[藤原田麻呂]](副使)・[[高麗広山]]<ref>高麗大山の弟</ref>(副使)||2||規模を縮小した上で、唐使[[沈惟岳]]を送らんとするも夏のうちは風浪に恵まれず、安史の乱の影響もあり渡海できないまま7月に正式に中止<ref>『続日本紀』天平宝字6年7月是月条</ref>。翌年正月17日、[[渤海使]]の[[王新福]]が混乱する唐の情勢を伝え、これを鑑みた朝廷は沈惟岳をしばらく大宰府に留まらせるよう命令。大使らは都へ帰還を命じられる。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
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|align="center"|16||宝亀8年<br />([[777年]])||宝亀9年<br />([[778年]])||[[小野石根]](持節副使・大使代行)・[[大神末足]](副使)<br />/[[佐伯今毛人]](大使)・[[大伴益立]](副使)・[[藤原鷹取]](副使)||[[海上三狩]](遣唐判官)・[[大伴継人]](遣唐判官)・[[小野滋野]](遣唐判官)・[[上毛野大川]](遣唐録事)・[[韓国源]] (遣唐録事)・[[羽栗翼]](遣唐録事→准判官)||align="center"|4||安芸国で船4隻を建造。776年4月に任命された大使・佐伯今毛人らは4月に出航し肥前松浦まで到達するも、順風が吹かないことを理由に一旦博多に帰還。8月、佐伯は来年夏への延期を奏上して許可され、11月に大宰府から都に帰還し節刀を返上。この間も遣唐副使の大伴益立や判官・海上三狩らは大宰府に留まり入唐の期を窺っており、人々は留まった副使らの姿勢を褒めた。同月遣唐録事となる。同年8月、羽栗翼、録事から准判官に昇格。しかし12月に大伴益立・藤原鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野石根と大神末足が任命された。しかし翌777年4月、(同日に渤海からの使者が朝廷に参内している。この使者は行路に暴風に遭い、2/3以上の犠牲者を出している)都を出立した佐伯は直後に病と称し、難波津より先に行くことを拒否。同年6月に副使であった小野石根が大使代行として、大使不在の弁明の書を携えて使節団は渡航した。光仁天皇から藤原清河に対しての帰朝の命令の書簡が出されるなど、藤原清河を迎える目的もあった使節だが、小野石根らがようやく長安入りしたこの年の5月頃、清河は既に死去していた。なお同年1月には阿倍仲麻呂も死去。6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州に到着。長安を目指すも、安禄山の乱による混乱から、長安行きの人数を40余人に制限される。翌778年1月に大使・副使・羽栗翼・小野滋野・上毛野大川・韓国源ら43名は長安着。3月に皇帝[[代宗 (唐)|代宗]]へ拝謁し、4月に長安を離れて揚州に入り、9月に順次帰国の途に就いた。第3船の判官[[小野滋野]]や唐使らは9月9日に出航、3日後に浅瀬に座礁し航行不能。どうにか修理して再浮上させ10月16日航海再開、23日に五島列島に到着。朝廷で唐での顛末を報告。11月5日に第1船と第2船、同時に出航。第2船は13日に薩摩国出水郡に到着。第1船は8日に嵐で遭難、船体は大破し破断。小野石根、唐使[[趙宝英]]ら死亡。同船に乗っていた大伴継人や羽栗翼、藤原清河と唐人の間に生まれた娘の[[藤原喜娘]]ら40余名は2つに裂けた船の片方の残骸にしがみついて漂流。[[肥前国]][[天草郡]]西仲嶋(現在の[[鹿児島県]][[出水郡]][[長島 (鹿児島県)|長島]])に漂着し、11月に[[平城京]]に入った。第4船の海上三狩らは[[楚州 (江蘇省)|楚州]][[塩城県]]から出帆するが<ref>『続日本紀』宝亀9年11月13日条</ref>、耽羅島([[済州島]])に流れ着いてしまい島人に略奪され船を留置された。ここで録事・韓国源ら40余名は船ごと島からの脱出に成功し、同年11月に[[薩摩国]][[甑島郡]]へ到着した<ref>『続日本紀』宝亀9年11月10日条</ref>。三狩はそのまま残されたが、のちに[[日本]]からの要請を受けて[[捜索]]していた[[新羅]]に発見される<ref>『続日本紀』宝亀11年正月5日条</ref>。翌779年2月に三狩らを迎えるために大宰少監・[[下道長人]]が[[遣新羅使]]に任ぜられ<ref>『続日本紀』宝亀10年2月13日条</ref>、同年7月に三狩は帰国<ref>『続日本紀』宝亀10年7月15日条</ref>。大神末足らは779年3月に帰国。羽栗翼は唐にて日本で採れた[[鉱物]]を鑑定してもらい、また、帰国後に『宝応五紀暦経』を朝廷に献上、唐では当時日本で使用されていた[[大衍暦]]が既に廃止され[[五紀暦]]が採用されていることを報告している。778年11月、遣唐使の帰国に伴って来日した唐使の慰問を、元副使の藤原鷹取が行っている。なお佐伯・大伴益立・藤原鷹取らは777年中から779年にかけて官界に復帰している。
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|align="center"|17||宝亀10年<br />([[779年]])||天応元年<br />([[781年]])6月||[[布勢清直]](送唐客使)||[[甘備清野]](判官)・[[多治比浜成]](判官)||align="center"|2||唐使[[孫興進]]を送る。船二艘を安芸国で建造。
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|align="center"|18||延暦23年<br />([[804年]])||延暦24年<br />(805年)7月||[[藤原葛野麻呂]](大使)・[[石川道益]](副使)||[[空海]](留学僧)・[[最澄]](請益僧)・[[義真]](最澄の弟子。[[訳語]])・[[橘逸勢]](留学生)・[[霊仙]]・[[伴雄堅魚]]([[棋士 (囲碁)|碁師]])・[[菅原清公]](遣唐判官)・[[三棟今嗣]](遣唐判官)||align="center"|4||803年に出発するがすぐに船が損傷し航行不能となる。翌804年7月に再度出発した。往途、第3船、肥前松浦郡で[[座礁]]遭難。第4船も遭難し<ref>『日本後紀』延暦24年6月8日条</ref>、大使と空海らの第1船、副使石川道益と菅原清公・最澄らの第2船のみが中国に到達した。第3船と第4船を捜索するために、当時の風向きなどを考慮して[[大伴峰麻呂]]が[[遣新羅使]]として派遣されている<ref>『日本後紀』延暦23年9月18日条</ref>。第3船の三棟今嗣らは船を放棄・脱出して大宰府まで帰り着く<ref>『日本後紀』延暦24年7月16日条</ref>。第4船は行方不明。葛野麻呂の第1船は8月に福州に漂着。現地で役人に海賊の疑いをかけられ50日間待機させられる。このとき葛野麻呂が福州の長官へ嘆願書を書いたが悪文悪筆で却って嫌疑を招いたため、代わりに全く無名の留学生だった空海(のちの[[三筆]])が嘆願書を代筆し、嫌疑が晴れた。この時空海個人での長安入京留学の嘆願書を提出し、「20年」予定であると記述している<ref>[[渡辺照宏]]、[[宮坂宥勝]]『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.69、242</ref>。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安入りし、[[徳宗 (唐)|徳宗]]への謁見を果たす。一方明州に到着した第2船に乗船していた副使の石川道益、病に伏し唐で没。一行は805年1月の[[徳宗 (唐)|徳宗]][[崩御]]と[[順宗 (唐)|順宗]]の[[即位]]に遭遇。同年5月に明州から帰国の途に就き、6月5日対馬を経由して7月に帰国。同期の遣唐使であるが、この頃既に名声のあった最澄と一介の学僧の空海は、この時点で面識はほぼ無く、唐でも目的を別にして全く別行動を取っている。いわゆる短期留学生の最澄は大使らと共に帰国した。また、留学生の橘逸勢は語学が苦手だったようであり、現地での言葉の壁による学習の障害を嘆いている。このため逸勢は話し言葉の疎通をあまり必要としない琴と書を熱心に学び、のちの帰国後その道の第一人者となった(のちの[[三筆]])。