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{{出典の明記|date=2011年6月}}
{{独自研究|date=mar 2015}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = アルトゥール・ルービンシュタイン<br />Arthur Rubinstein
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}}{{Portal クラシック音楽}}'''アルトゥール・ルービンシュタイン'''(Arthur Rubinstein, [[1887年]][[1月28日]] - [[1982年]][[12月20日]])は、[[ポーランド]]出身の[[ピアニスト]]<ref>{{Cite web |url =http://www.muzeum-lodz.pl/pl/muzeum/wystawy-do-wypozyczenia/1200-wystawa-mobilna-qartur-rubinsteinq |title =Wystawa mobilna "Artur Rubinstein" |publisher =www.muzeum-lodz.pl |date = |accessdate =2018-12-03 }}</ref><ref>{{Cite web |url =https://culture.pl/en/article/2007-the-year-of-artur-rubinstein |title =2007: the Year of Artur Rubinstein |publisher =culture.pl|date = |accessdate =2018-11-26 }}</ref>。様々な作曲家の作品の演奏で国際的な名声を博し、特にショパンの演奏では同時代の最も優れたピアニストであるとみなされている.<ref name="nytimes.com"/><ref>''The great pianists'', Harold C. Schonberg, Simon & Schuster, 1987</ref>。また、[[20世紀]]の代表的なピアニストの1人である<ref name="nytimes.com">{{cite news|url=http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0128.html |title=Arthur Rubinstein Dies in Geneva at 95 |work=The New York Times |date=November 21, 1937 |accessdate=November 6, 2011}}</ref> 。ルービンシュタインの演奏家としてのキャリアは80年を超えた<ref name="Teachout, Terry 1996">Teachout, Terry. "Whatever Happened to Arthur Rubinstein." Commentary 101, no. 2 (1996): 48-51. Index to Jewish Periodicals, EBSCOhost (accessed October 10, 2012).</ref>。前半生は主に[[スペイン]]で、後半生は主に[[アメリカ合衆国]]で活躍したが来日も果たした。ショパン以外では、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]や[[ファリャ]]、[[グラナドス]]ほかのピアノ音楽も得意とした。▼
{{Portal クラシック音楽}}
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前半生は[[ヨーロッパ]]で、後半生は[[アメリカ合衆国]]で活躍した。ショパン以外では、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]や[[スペイン]]のピアノ音楽も得意とした。
== 経歴 ==
[[ファイル:Pomnik Rubisteina Lodz.jpg|
[[ファイル:RCA Red Seal.jpg|
出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)として[[ウッチ]]の[[ユダヤ人]]の家庭に生まれた。8人兄弟の末子で、父は富裕な工場主であった<ref>"Intoxicated with Romance." Time 101, no. 23 (June 4, 1973): 73. Academic Search Premier, EBSCOhost (accessed October 9, 2012).</ref>。ルービンシュタインが2歳の時に姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現して見せ、[[絶対音感]]とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには自ら神童であると自覚していた。[[ハンガリー]]の著名な[[ヴァイオリニスト]]であった[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]は4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。「この少年はとても偉大な音楽家になるかも知れない ― 確かに彼には才能がある・・・本格的に勉強する年齢になったら私の所に連れて来なさい。私は彼の音楽教育を監督することに喜びを感じることになるだろう」。[[1894年]]12月14日、7歳のルービンシュタインは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の作品でデビューを飾ったのだった<ref name="Rubinstein, Artur 1973">Rubinstein, Artur. 1973. My young years [by] Arthur Rubinstein. n.p.: New York, Knopf; [distributed by Random House] 1973., 1973. Ignacio: USF Libraries Catalog, EBSCOhost (accessed October 9, 2012).</ref><ref name=rubinsteinalife>{{cite book|last=Sachs|first=Harvey|title=Rubinstein: A Life|year=1995|publisher=Grove Press|location=New York|isbn=978-0802115799|edition=1. ed.|coauthors=with a discography by Donald Manildi}}</ref>。
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[[1960年]]、[[ショパン国際ピアノコンクール]]の審査委員長を務めた。このときの優勝者が[[マウリツィオ・ポリーニ]]であり、ルービンシュタインのコメント「我々の誰よりも上手い」により大変有名となった。だが[[1976年]]、「[[飛蚊症]]」が原因による[[視力]]喪失により引退となり、ルービンシュタインの最後のコンサートはロンドンの[[ウィグモア・ホール]]で開かれた。
ルービンシュタインは8ヶ国語を流暢に話したという<ref name="sachs">{{cite book | first=Harvey | last=Sachs | title=Rubinstein: A Life | pages=8, 265, 269, 275 | location=New York | publisher=Grove Press | year=1995 | isbn=0-8021-1579-9 }}</ref>。また、ルービンシュタインは恐るべき記憶力の持ち主で、ピアノ曲だけではなく膨大な数のレパートリーを持っていた<ref name=sachs /> 。自伝によると、ルービンシュタインは[[セザール・フランク|フランク]]の《[[交響的変奏曲 (フランク)|交響的変奏曲]]》を、コンサートへ向かう列車の中で、ピアノ無しで暗譜
またルービンシュタインは[[聴覚]]も非常に発達しており、心の中で全ての交響曲を演奏することが可能だった。またルービンシュタインは自伝の中で、「朝食の時、私は頭の中でブラームスの[[交響曲]]を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と述べている。ルービンシュタインの友人達はよく、[[オペラ]]や交響曲の楽譜から適当なものを抜き出し、ルービンシュタインの記憶力によって演奏させようとした<ref name="nytimes.com"/>。
== ルービンシュタインと室内楽 ==
▲[[ファイル:RCA Red Seal.jpg|right|thumb|ルービンシュタインのイギリスにおける赤盤LPレコードの売上が30万枚を突破したことを記念して[[RCAレコード]]が授与したゴールドディスク]]
特にソリストとして有名ではあるものの、卓越した室内楽演奏家でもあり、[[ヘンリク・シェリング|シェリング]]や、[[ピエール・フルニエ|フルニエ]]、[[グァルネリ弦楽四重奏団]]などと組んで[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の作品を録音した。
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「百万ドル・トリオ」の華麗な演奏マナーを反省し、シェリングやフルニエと組んで録音したブラームスのピアノ三重奏曲全集と同じ顔ぶれによるシューベルトのピアノ三重奏曲集で、[[1975年]]と[[1976年]]に[[グラミー賞]]を授与されている。そのほかにも2度グラミー賞に輝いている。
20世紀前半当時の現代音楽を奨励したルービンシュタインへ大作曲家が多数献呈しており、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]《[[ペトルーシュカからの3楽章|「ペトルーシュカ」の3つの断章]]、[[ピアノ・ラグ・ミュージック]]》、[[エイトル・ヴィラ=ロボス|ヴィラ=ロボス]]《赤ちゃんの一族、野生の詩》、[[カルロス・チャベス|チャベス]]《ルビンシュタインの為の練習曲》、[[カロル・シマノフスキ|シマノフスキ]]《[[ピアノソナタ第2番 (シマノフスキ)|第二ソナタ]]、マズルカ》、[[フェデリコ・モンポウ|モンポウ]]《歌と踊り第6番》、[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]《[[ベティカ幻想曲]]》、[[フランシス・プーランク|プーランク]]《組曲》、[[アレクサンデル・タンスマン|タンスマン]]《ルービンシュタインに寄せるオマージュ》、といった具合にピアニズムの粋を追求した作品が書かれた。
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戦後は読譜力の低下から現代音楽を手がけることはほとんどなく、専らロマン派以前のレパートリーに回帰したが、[[カーネギー・ホール]]で初めてシマノフスキを取り上げるなど、かつての作曲家との恩は忘れなかった。
*ルービンシュタインのレパートリーは古典派から現代音楽に及ぶ。当時ようやく広がってきたレコード録音にも興味があり、SP期から約50年近くにわたって数多い。中心はショパンであり[[マズルカ]]や[[ポロネーズ]]、[[夜想曲 (ショパン)|ノクターン]]など、録音技術の進歩に伴い複数回残
*アコースティック録音の時代には、「ピアノがバンジョーのように聴こえる」とのことから、録音についてはあまり興味が持てなかったようである。しかし、電気録音が考案されて後1928年に、HMVのアーティスティック・ディレクター、フレッド・ガイスバーグがルービンシュタインを説得してテスト録音を行い、そのプレイバックを聴いたルービンシュタインが音質に感激したことから、積極的に録音に取り組むようになったといわれる。
*1929年にブラームスの[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]]を世界で初めて録音している。
*非常に雄大ながら大味。技術的に高度な曲目をいかにも難しい曲のように演奏するので、若い時分には支持が少なかった。しかし後年の記録映画「[[カーネギー・ホール (映画)|カーネギー・ホール]]」で[[英雄ポロネーズ]]を披露している。一台のピアノから轟音(ごうおん)が響き渡り、前人未踏の高山に登るような演奏をしている。
*同一曲の聞き比べにより、今では貴重になった「19世紀の大芸術家」の演奏様式を知ることができる。また協奏曲にも[[ベルナルト・ハイティンク|ハイティンク]]や[[アンドレ・プレヴィン|プレヴィン]]らとの共演で、映像を残している。
*スタジオ録音を好み、ルービンシュタインの生前にライブ版でリリースを許されたのは、合計僅か3時間分であった。だが彼の死後、複数のレーベルが、ラジオ番組でのライブ演奏の音源をリリースしている。
== 映画出演 ==
*''{{仮リンク|Night Song|en|Night Song (film)}}'' (1948)
==脚注==
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{{commonscat|Arthur Rubinstein}}
{{Normdaten}}
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