「桂米朝 (3代目)」の版間の差分

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=== 本格的に落語家へ ===
矢倉が[[桂米之助 (3代目)|3代目桂米之助]]となったことが縁で、後に師匠となる[[桂米團治 (4代目)|4代目桂米團治]]に教えを請う機会が生じた。この時に「[[宿屋の富|高津の富]]」を教わる。
 
やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、[[1947年]]9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目'''[[桂米朝]]'''を名乗る<ref>当初、米團治は「いずれ米朝という名前を与える」というつもりで「米朝の名前をあげよう」と中川に告げたが、中川はその場で「米朝という名前をもらった」と思い込んで正岡に知らせてしまった。中川から話を聞いた正岡がすぐさま米團治に礼状を書いてしまったことから、米團治も中川に入門当初から3代目米朝を名乗ることを許した。</ref><ref name="私の履歴書" />。一旦勤めを辞めて米團治宅の[[内弟子]]となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑[[郵便局]]員として1年ほど勤務した<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201703/0010001040.shtml 郵便局員辞め、落語一筋に 若き米朝26歳の覚悟]</ref>。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。