「芭蕉の辻」の版間の差分

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[[ファイル:Basho no Tsuji 2010.jpg|thumb|250px|2010年の芭蕉の辻(左の建物は[[日本銀行]]仙台支店)]]
 
[[仙台城]]の[[城下町]]は、[[大手門]]からの[[大手筋]]([[大町 (仙台市)|大町]]の街路)とこれに直交する[[奥州街道]]([[国分町 (仙台市)|国分町]]の街路)を基準に町割がなされ、大町・国分町の両町は城下の経済の中心地、いわゆる目抜き通りとなった。江戸時代後期の「仙府年中往来」によれば、芭蕉の辻を中心に[[仙台初売り#江戸時代_:_仲見世(歳の市)の発展|歳の市]]が立ち、大いに賑わったという
{{Quotation|布を織る芭蕉の辻ぞ賑はしき 人の往来もたてぬきにして|千柳亭綾彦(錦織即休)<ref name="junjo-14">{{国立国会図書館デジタルコレクション|932588/14|仙台巡杖記|format=EXTERNAL}}</ref>}}
 
現在の芭蕉の辻は、[[日本銀行]]仙台支店({{ウィキ座標|38|15|38|N|140|52|15.9|E|region:JP|地図|name=日本銀行仙台支店}})がこの十字路の北東角に立地し([[七十七銀行1941年]]芭蕉の辻支店(旧・第3代本店、開設<ref>{{ウィキ座標Cite web |38|15|35url=http://www3.9|N|140|52|13boj.9or.jp/sendai/syoukai/sendaisiten4.html |E|region:JP|地図|nametitle=日本銀行仙台ビルディング支店 仙台支店のご紹介七十七仙台支店の歴史) |publisher=[[日本銀行芭蕉の辻]]仙台支店 |accessdate=2018-12-24}}</ref>などがこの十字路に面し周辺を含め[[金融街]]としての性格を残してはいるものの、旧大手筋にあたる[[中央通り (仙台市)|中央通]]の[[アーケード]]は[[国分町通り|国分町通]]の一本東を南北に通る[[一番町 (仙台市)|東一番丁]]までで止まっているなど、商業的な中心からは外れてしまっている。かつては[[七十七銀行]]の本店も存在し、[[1903年]]から[[1929年]]までの2代目が北東角(現在の日本銀行仙台支店の場所)に、1929年から[[1958年]]までの3代目が南西角にあった({{ウィキ座標|38|15|35.9|N|140|52|13.9|E|region:JP|地図|name=新仙台ビルディング}})。なお、3代目本店の跡地に建てられた新仙台ビルディング内に芭蕉の辻支店が入居していたが、同ビルの建て替えに伴い[[2018年]][[6月29日]]をもって営業を終了し、同支店は本店営業部の[[ブランチインブランチ|店舗内店舗]]となった<ref>{{Cite web |date=2018-04-17 |url=https://www.77bank.co.jp/pdf/newsrelease/18041702_bashou.pdf |title=芭蕉の辻支店の店舗移転のお知らせ |format=PDF |publisher=[[七十七銀行]] |accessdate=2018-12-24}}</ref>。建て替え後のビルへの再移転は予定されておらず<ref>{{Cite news |title=仙台の「最古」ビル建て替え 20年完成、オフィス需要見込む |newspaper=[[河北新報]] |date=2018-10-12 |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201810/20181012_12005.html |accessdate=2018-12-24}}</ref>、東北地方最大の[[地方銀行]]が当地を撤退することとなる。
 
== 歴史 ==
[[江戸時代]]から[[仙台城]]の[[城下町]]の町割の基点とされた。辻には[[制札]]が掲げられたため当時は「'''札の辻'''」が正式名称であった。
 
辻の建物は、[[仙台藩]]がその威光を街道を行く人々に見せるために、四つ角全てが城郭風の高楼を備えた同じ形状の建物となっていた。これらの建物は一階部分は普通の商家と同じつくりになっていて、仙台藩が築造に要する一切の材料および費用を負担したうえで、地元の豪商に貸し出された。一例として何度か[[1829年]]([[文政]]12年)2月に発生した火事([[天明]]年間という説もある)て全て焼失した際その度に仙台の費用が同年6月よっ材木を供給して再建されたを命じている<ref name="junjo-12">{{国立国会図書館デジタルコレクション|932588/11|仙台巡杖記|format=EXTERNAL}}</ref>。だが江戸時代末期にもなると藩の財政も疲弊し、こうした対応は採らなくなっていった。
[[1890年]]([[明治]]23年)から[[1902年]](明治35年)にかけて、度重なる火事によって三隅が焼け落ち<ref name=junjo-12></ref>、最後に残っていた北西角も[[太平洋戦争|戦災]]で失われた。
一部の建物は第二次世界大戦前まで残っていたが、これもやがて戦災で失われた。
 
重罪犯人の「[[鋸挽き]]」や「立晒し」の[[刑場]]としても利用された。
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== 碑 ==
[[ファイル:Basho no Tsuji Michishirube in 2008 cropped.jpg|thumb|200px|right|北西角の道標(2008年5月撮影)]]
[[青葉区1935年]]([[昭和]]10年)に伊達政宗の没後300年を記念した[[藩祖]]伊達政宗公三百年祭が行われ、正宗が整備した城下町の基点ともいうべきこの地に「芭蕉の辻」の碑が建てられた<ref name="kahoku181218">{{Cite news (仙台市)|青葉区title=河北抄 |newspaper=[[河北新報]] |date=2018-12-18 |url=https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyou/20181218_01.html |accessdate=2018-12-24}}</ref>。前の[[内閣総理町一丁目臣]]で、三百年祭の名誉総裁であった[[斎藤実]]が揮毫したものであったが、[[1945年]]の[[仙台空襲]]の後、行方不明となった<ref name=kahoku181218></ref>。その後、北西角の明治安田生命仙台ビルの前に[[1970年]]([[昭和]]45年)竣工の「芭蕉の辻」の碑と「江戸六十九次」「日本橋迄九十三里」と刻まれた道標が新設されている。
 
== 脚注 ==
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* [[仙台市電#芭蕉の辻線]]
* [[六道の辻]]
* [[熊耳耕年]](芭蕉の辻にあった商家の生まれで、『芭蕉の辻錦絵』を描く)
 
== 外部リンク ==