「西上作戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
でここ (会話 | 投稿記録)
→‎撤退: 史料的根拠が不明な「説」を除去。
64行目:
このような信玄の遅々とした動きに疑念をもった織田信長は、2月から反攻に転じる。重臣の[[柴田勝家]]や[[丹羽長秀]]・[[蜂屋頼隆]]・[[明智光秀]]に命じて2月26日に[[近江石山城]]の[[山岡景友]]を降伏させ、2月29日には[[今堅田城]]の[[六角義賢]]らを討った。
 
[[甲陽軍鑑]]によると、このような信長の動きを知った信玄は、3月に重臣の馬場信春に命じて東美濃に侵攻させて、信長が率いる織田勢を破って[[岐阜城]]に追い払ったとされている。ただし上記の通りこの頃の信長はまだ武田を攻撃する動きは見せていないため、甲陽軍鑑の記述は辻褄が合わない。
 
しかし信玄の持病は良くならず、4月には病気療養を目的にして甲府への撤退を決意する。しかし4月12日、信玄は信濃駒場で急死し、西上作戦は頓挫することとなったのである。森田善明は、武田軍の北上は撤退ではなく、当初計画通りの[[神坂峠]]からの美濃侵攻が狙いであったとの説を唱えている<ref>{{Cite book|和書|author=森田善明|title=図解 戦国10大合戦のウソ|publisher=ワック|year=2011}}</ref>
 
== 研究史 ==