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当時の[[東アジア]]では[[漢字]]および[[漢文]]が広く用いられていたことから遣唐使なども文書を読むことや筆談に関しては支障がなかったとみられているが、会話に関しては訳語なくして円滑な[[コミュニケーション]]を取ることは困難であった。また、唐国内では遣唐使などの[[外国]]使節は役人以外の唐の人々と会話をすることは禁じられていた(『唐律疏議」巻8衛禁・越度縁辺関塞条疏議所引「唐主客式」)が、現実には[[船]]が漂着した時や必要文物の調達などのためには現地[[住民]]との会話が必要となるため、訳語の存在が必要であった。また、留学生においても同様であり、[[最澄]]は同行していた弟子の[[義真]]が訳語としての能力を有していたおかげで業を為し得たことが知られている(『扶桑略記』延暦21年9月2日条)。
 
なお、『[[唐六典[[』によれば、[[唐]]の鴻臚寺には定員20名の訳語が設けられていたと記されているが、その多くが新羅などの近隣もしくは使者の来訪が多い国の訳語であったとみられ、[[日本語]]の訳語はほとんどいなかったとみられている<ref>ただし、唐に日本語の訳語がいた可能性もある。[[五代十国時代|五代]]から[[北宋]]にかけての人物である陶穀が記した『清異録』によれば、[[建中 (唐)|唐の建中年間]](日本の宝亀年間)の日本使(遣唐使)の1人であった真人興能(布施清直と推定されている)の書の見事さに訳者が彼の書を譲って貰った[[故事]]を載せている。前後のやりとりからこの訳者が唐側の訳語であった可能性が高い(榎本、2008年、P162)。</ref>。
 
== 脚注 ==