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[[1977年]]7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、[[全国普通高等学校招生入学考試]]を復活させる。
 
[[1978年]]10月、[[日中平和友好条約]]の批准書交換のため、当時は副総理だったが、事実上の中国首脳として初めて訪日して[[福田赳夫]]首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて[[昭和天皇]]と会見した。[[ロッキード事件]]の渦中にあった[[田中角栄]]の私邸を田中の[[日中国交正常化]]の功績を称えるべく訪れた他、[[日本社会党]]・[[公明党]]・[[民社党]]・[[新自由クラブ]]・[[社会民主連合]]・[[日本共産党]]といった野党6党の代表と会談して自らを[[不老不死]]の[[霊薬]]を求めて来日した[[徐福]]に擬えた<ref>{{cite news |title= 1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの |publisher=[[人民網]] |date=2008-12-03 |url=http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html |accessdate=2016-11-05}}</ref>。[[千葉県]][[君津市]]の[[新日本製鐵君津製鐵所|新日鉄君津製鉄所]]を訪れて上海の宝山製鉄所への協力を仰ぎ、[[東海道新幹線]]に乗った際はその速さに驚嘆し、[[パナソニック]]の工場では工場建設を呼びかけ、[[日産自動車]]の整然と作業する[[パナソニ産業用ロボ]]に感銘を受ける<ref name=chinajapan2007>劉徳有 『忘れ難き歳月 : 記者たちの見た中日両国関係』222頁 五洲伝播出版社 2007年</ref>など先進技術、施設の視察を精力的に行い、[[京都]]や[[奈良]]にも訪れた。この日本訪問で鄧小平が目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された
 
同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち[[改革開放]]路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し<ref>天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』、247ページ。</ref>、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。
[[ファイル:Carter Nixon Deng.png|left|240px|thumb|[[ジミー・カーター]](左)や[[リチャード・ニクソン]](中央)と(1979年の訪米にて)]]
[[1979年]]1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都[[ワシントンD.C.]]で大統領[[ジミー・カーター]]との会談に臨んだ後、[[ヒューストン]]、[[シアトル]]、[[アトランタ]]などの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の訪日とこの訪米で科学技術において立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革開放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
 
鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「[[二つのすべて]]」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である[[胡耀邦]]らにより[[人民日報]]、[[解放軍報]]、[[新華社通信]]に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は[[1981年]]6月の第11期6中全会において[[中国共産党中央委員会主席|党中央委員会主席]]兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、[[中国共産党中央委員会総書記|党中央委員会総書記]]<ref>1982年9月に開催された第12回党大会における党規約改正で党主席制が廃止され、党の最高ポストとして中央委員会総書記が設置された。</ref>)に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の[[1980年]]には鄧小平の信頼厚い[[趙紫陽]]が[[国務院総理]](首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。
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* [[日本国]][[外務省]]の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、[[1978年]]8月の[[日中平和友好条約]]交渉において、鄧小平が[[ソ連]]を[[覇権主義]]と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が[[園田直]]外相に対し、「中国は、将来巨大になっても[[第三世界]]に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであり、[[近代化]]を実現したときには、[[社会主義]]を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではない」と述べたという<ref>「鄧小平氏の教訓」、『読売新聞』2011年1月12日付論点。</ref>。同条約調印式の際は[[日米安全保障条約]]と[[自衛隊]]の軍事力増強を歓迎すると表明した<ref>[http://www.nids.go.jp/publication/briefing/pdf/2011/briefing_150.pdf 中国から見た日米同盟体制 - 防衛省防衛研究所]</ref>。
* [[1977年]]、 訪中した元[[陸将]]・[[陸上自衛隊]]第9師団長の三岡健次郎に対して鄧小平は「毛沢東主席は常々『過去のことは水に流そう』と言われた。しかも実際は日本が中国を助けた。日本が蒋介石を重慶まで追いやったから我々は日本軍の占領地域の後方に展開できた。そして8年間に3万から120万にまで増えたし、さらに数百万の民兵まで作り、120万の我々は3年で蒋介石軍を撃破できた。だから皆さんだけを責めるのは不公平だと思う」と述べ<ref>三岡健次郎『自衛隊将軍鄧小平と会す』「軍事研究」昭和52年12月1日</ref>、鄧小平の要請で三岡健次郎が設立した[[中国政経懇談会]]が始めた[[自衛隊]]OBによる日中交流は中断なく今日まで続いてる<ref>Willマンスリーウイル『自衛隊OB・人民解放軍交流会報告 中国の狙いは「尖閣に五星紅旗」』 2013年9月</ref>。
* [[1978年]]の訪日時には様々な談話を残した。「これからは日本に見習わなくてはならない」という言葉は、工業化の差を痛感したもので、2ヶ月後の[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]決議に通じるものであった。また、帝国主義国家であるとして日本を「遅れた国」とみなしてきた中華人民共和国首脳としても大きな認識転換であった。[[新幹線]]に乗った際には「鞭で追い立てられているようだ」「なんという速さだ。まるで風に乗っているようだ」という感想を漏らしている。日産自動車の工場を訪れた際は「[[ロボット]]はお金のことを言わないし、彼らが[[ストライキ]]するのを心配する必要もない」と述べ<ref name=chinajapan2007/>、[[日本車]]の美しさも誉め称えたため、日産自動車から[[高級車|最高級乗用車]]の[[日産・プレジデント]]が特別に贈られた<ref>{{cite news |title= 邓小平访问日本求长生不老药 |publisher=多維新聞網 |date=2017-07-05 |url=http://culture.dwnews.com/history/news/2017-07-05/59823718.html |accessdate=2018-12-25}}</ref>。ほかには、「日本と中国が組めば何でもできる」という、解釈によっては際どい発言を残してもいる。事実、訪中した[[鈴木善幸]]自民党総務会長に対し、中国での日中共同の兵器工場を建設する計画を鈴木本人によれば真剣に提案してきたという<ref>『鈴木善幸回願録』p155</ref>。訪日時の[[昭和天皇]]との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いた鄧小平は立ちつくしたと、[[入江相政]]は言っている<ref>入江相政日記241頁</ref>。この後に鄧小平は昭和天皇の訪中に拘り始め、[[1984年]]に[[田中角栄]]元首相を通して日本に働きかけるも[[宮内庁]]は[[沖縄]]訪問を優先したので断られた<ref>城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』8頁</ref>。天皇の訪中は[[明仁|今上天皇]]となってから[[1992年]]に実現する。
* [[1979年]]に訪中した[[松下幸之助]]に対して[[孫悟空]]の[[寓話]]を持ち出して日本の電子産業全体で中国の電子産業を支援させるという「君子の約束」を交わし<ref>{{cite news |title=第17話 鄧小平氏の松下訪問とハイアールのパナソニック白物家電買収|publisher=日本経営合理化協会|url=http://jmcasemi.jp/column/article.php?article=1107 |accessdate=2017-11-29}}</ref><ref>{{cite news |title=松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」(2) |publisher=中国網|date=2008-11-04 |url=http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/04/content_16709362.htm |accessdate=2017-11-29}}</ref>、松下は訪中の際は鄧小平に構想の遅れを詫びていた<ref>{{cite news |title=松下幸之助と鄧小平の「君子の約束」(3) |publisher=中国網|date=2008-11-05 |url=http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/05/content_16714152.htm |accessdate=2017-11-29}}</ref>。
* [[1989年]]に鄧小平は訪中した[[王永慶]]([[中華民国]]で「台湾の松下幸之助」と呼ばれる)と会談し、巨大プロジェクト「海滄計画」が打ち出されるも台湾政府に中止された<ref>[http://big5.china.com.cn/chinese/zhuanti/jyzswyq/621116.htm 王永慶在大陸的事業 - 中國網]</ref>。